一穂がエッセイ「白鳥古丹」を発表したのは1965年、「古平同窓会報」誌上である。幼少期を過ごした故郷古平に対する一穂の熱い思いがあふれている一篇である。伊藤整に「北海道訛りがありますネ」と云われ、「生国の言葉を忘れるやうな俺れは軽薄な男ではない」と憤然と叱ったという話が紹介されており、一穂の熱い気質がしのばれる。
海獣が首をもたげて波に吼えてゐる石像のセタカムイ、太古の天を指す蝋燭岩の海の牙、湾深く碧瑠璃の海水を湛へて、こゝ古丹に白鳥のまぼろしを見る。水平線の彼方、雪の連互が海への誘ひをかけ、断崖絶壁の眼下、水透く暗礁に激する波のめくるめき……わが海の詩碑は石ながらも、革堂(※革偏に堂)鞳の波の音に永遠を賭けてゐるだらう。
これが一穂の見た古平の風景であった。その碧々とした海の描写は凄まじいほどに美しい。古丹とはコタン、アイヌ語で集落や村の意である。この「白鳥古丹」の風景は、実際の古平そのものとはいえないのだろう。美しい追憶と空想のなかの海沿いの集落である。白鳥に託された幻想の世界である。
一穂にとって古平は幻想の故郷であり、現実の故郷は渡島の木古内である。一穂の実家は長いことその地にあり、帰省先もそこであった。木古内の追憶を語った数少ないエッセイが1966年に「温泉」という雑誌に寄せた「幻の宿」である。
トラピスト修道院の在る隣村の漁家に生れた私は、大学の休暇に帰省してゐて「知内」の山の中に温泉宿があることをきき、ルク・ザック一つで、津軽海峡の波の反射をうけながら、木古内までの砂浜を歩いてゐた。この沿岸の街道筋は明治維新の彰義隊くづれと討伐隊が最後の決闘を演じた、五稜郭と松前城を結ぶ線である。
知内にあったという記憶も朧な温泉宿での出来事を回想した随筆である。一穂の故郷はつねに夢まぼろしと隣り合わせだ。1970年に発表した「帰心萬波」というエッセイでは珍しく社会派の顔を見せており、政府の漁業政策への憤りを見せるとともに果ては北海道独立論までいってしまうなど、最晩年の頑固老人・一穂の姿が垣間見える。しかしこうした晩年のエッセイを通して気付くことがある。北海道の人間が少なからず持っているアイヌへの原罪感覚を一穂もまた共有していたように思うのだ。北海道の人間がアイヌ文化への素朴な憧憬や幻想を表現するとき、その裏側には罪の意識が貼りついている。
一穂の描く「白鳥古丹」は罪の意識から解放された世界の表現だったのだろう。だから何も知らなかった幼年期の記憶と結びついている。一穂は古平と同じような方法で木古内を描けなかった。木古内で描けることは「彰義隊くづれと討伐隊の最後の決闘」である。一穂のなかの木古内は、それまでの歴史が何もなかったかのように突如近代から現れたのである。実は木古内こそが、一穂の精神に迫るキーとなる場所かもしれない。