トナカイ語研究日誌

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一穂ノート・22

 「海の思想」には一穂の学生時代の思い出も綴られている。16歳で上京し、図書館で翻訳書を漁る生活が始まったという。それまで一穂少年は美術に対する興味が強かった。しかし文学にのめり込むうちに自ら絵筆を執ることはなくなり、もっぱら鑑賞専門になった。坂本繁二郎安井曾太郎梅原龍三郎の絵にとりわけ感動したという。そして一穂の原点ともいえる北欧文学への傾倒が始まったのもこのころである。北欧の文学や神話への耽溺は、やがて自らの育った北海道の風土の記憶へと重なってゆく。北海道神話の創世。それが一穂の最大の目標となってゆく。
 早稲田大学英文科に進学した一穂は、坪内逍遥の「ハムレット」講義や、芸術座にて島村抱月が上演した有島武郎「死とその前後」などの思い出を残している。横光利一や佐藤一英はこのころの同窓である。

私は戯曲を書く将来を夢みながらも、いつ知らず短歌を詠んでゐた。つねに希望と反する現実を、いつのまにか本然の底流が浸蝕し、くつがへすことを止めない。

 この頃の一穂は詩人よりも劇作家を夢みており、そしてまだ短歌を作っていた。また意外にアクティブな面もあり、短艇部で舵手として汗を流していたそうだ。決してインドア派タイプの詩人ではなかったようだ。一穂が詩に専念することを決意したのは家業の没落がきっかけである。大学に通う学費が払えなくなってしまったのが、大学の講義に得るものはもう何もないと考えていたため退学にはためらいはなかった。自活をする道がわからなかった一穂は、金にならないことをわかっていながらあえて詩を書いて原稿料で暮らしていくことを決意したそうである。デビューを引き立ててくれたのは早稲田の片上伸教授であり、同人誌に寄せた一穂の短歌に注目してくれたのである。
 劇作に憧れながら実際は短歌を作り続けていたことも、短艇部に所属していたことも、家業からくる「海」への呪縛があまりにも大きかったからだろう(一穂の短歌は海を詠んだものが非常に多い)。家業が没落した瞬間に、自らを育んだ古平の地が「家族の住む故郷」から「白鳥古丹」へと変質したのではないかと思う。