トナカイ語研究日誌

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一穂ノート・20

 1953年発表のエッセイ「海の思想」は一穂が珍しく自らの半生を綴ったものである。幼少期から青春期に至るまでの明るい告白がなされている。

 望郷は珠の如きものだ。私にとつて、それは生涯、失せることなきエメラルドである。

 この一文から随想は始まる。そしてこのような文もある。

(前略)ふるさとに関するかぎり、私もまた断じて彼れにその誇りを譲るものではない。プラキストン線を牽く津軽海峡に南面して、杉の自生北限地である北海の一漁村に、私は一八九八年、未踏の雪を背にして生れた。祖父たちは封建制から自由の民として、碌なコンパス一つ無く、吹雪と怒濤の中に北方の漁場を拓いていつたパイオニアであり、その基地の古い館が私の揺籃であつた。

 このくだりからわかることは、一穂が生まれ故郷として認識している地が「白鳥古丹」と賞賛した古平ではなく、木古内であることだ。開拓者として北の地を拓いた祖父への畏敬もあるのだろうが、木古内にほど近い上磯に在するトラピスト修道院が、一穂が最も心ひそかに誇っていた故郷の名所であったようだ。トラピスト修道院の開基は1896年、一穂とほぼ同年代である。

大学の休暇に私は帰省して、修道院で詩人・露風に会つた時、彼れは聖書の句にちなんで、七つの岬を指呼し《ここは瀬戸内海より美しい》と云つた言葉を忘れない、ナザレは世界を発想する格好の場所だとのルナンの証言と共に。

 露風とは詩人三木露風のことである。30代の始めころトラピスト修道院に文学講師として赴任していた。露風との交流は一穂に大きな影響を与えた。修道院に入って文学を学ぶことすら考えていたというからよっぽどだ。しかし結局のところ修道士にはならず、宗教的には無信仰を貫いた。
 この随想には、一穂が詩のなかでなかなか描こうとしない父や、移民一世である厳格な祖母が登場する。祖母や父への恐れが、一穂少年の人格形成に少なからず影響したようである。(続)