小野茂樹(おの・しげき)は1936年生まれ。早稲田大学文学部国文科中退。1955年に「地中海」に入会、香川進に師事。1969年に第1歌集「羊雲離散」で第13回現代歌人協会賞を受賞したが、その翌年に若くして交通事故死している。その後遺歌集「黄金記憶」が発表された。
師系としては前田夕暮の孫弟子にあたり、反リアリズムの印象派的・絵画的作風といえるだろうか。色鮮やかな表現で青春の叙情を描く、エバーグリーンな歌人である。
朝霧に日のかたち見ゆあたたかき眼をおもひつつ家出づるとき
きみの上に新しき灯をつけやらむそれからの筋それからのこと
建具みな光にうかぶ葉の中の部屋対きあひしわれら揺れをり
乾きたるてのひらにして残りゐし水の重みと知りつつ眠る
灯の洩るる壁に沿ひゆけり夜の闇のやはらかきところしばしば過ぎて
夕映えは揺れさだまらぬ樫の木をつつめりやうやくわが若からず
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
「光が漏れる」というイメージが多いように感じられる。絵画を描き出すような手付きで紡がれる歌は、やわらかく切ない。平井弘とともに、現代口語短歌の源流に数えられる歌人である。最後の「あの夏の〜」の歌は戦後短歌最高峰の一首である。相聞歌として扱われることが多いが、もはや相聞には留まらないスケールを備えた歌だろう。この「たつた一つの表情」とはどのような表情であったかは、読者ひとりひとりの内部に託されそれぞれの永遠の青春を想起させる。小野の短歌の最大の強みは、イメージの重層化が非常に巧みで豊かであった点にあるだろう。単に曖昧な表現をするのではなく、読んだ者ひとりひとりの記憶や想像力を引き出してくる技術が高いのである。
枯るるもの枯れたる園に音ありて水の走りは草の丘より
飴色の蟻の死とわが気付くまで昏れむとむしろ明るき日ざし
われの死をついに願ふか背きたるかなしみゆゑにただ生きたきを
涯くらき雪の中空眠りつつ覚めつつひとは甦るなり
母は死をわれは異る死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ
その一方で小野の歌には死が多く詠み込まれ、鮮やかな光が描写されるほどその裏側の影の部分が増していく印象を受ける。小野の生死観を決定づけたものは少年期の戦争経験と長野への学童疎開だと言われている。愛の描写がイメージ豊かであらゆる人に届く性質を持っているのに対し、死の描写は徹底して内省的かつ個人主義的である。死と孤独との分かちがたい関係。そこに小野茂樹の心の奥底を覗く鍵があるように思う。
てのひらに水面を押せばあふれつつこの直接もきみを得がたし
蜜したたるケーキのかけら耐へきたる不在の遠き飢ゑ満たすべし
夏雲のかがやく空に見失ふ投槍は地のものにはあらず
垣間見しゆゑ忘れえぬ夕映えのしたたる朱は遠空のもの
はじけ散るかるき感覚われに来て空はかたむく草の丘のうへ
ともしびはかすかに匂ひみどり児のねむり夢なきかたはらに澄む
ガラス戸にひしめき霧らふ花の束はなやぎて立つ夜のきりぎし
ひたすらに光にあふれきらきらしている歌たちだ。届きそうで届かない、触れられそうで触れられない。そんな状況が放つ一瞬のきらめきを小野は巧みに掬う。終戦と戦後の始まりがすなわち輝かしい希望の時代の始まりであるなどとは、小野は純粋に信じられなかったのだろう。いつだって希望や理想は愛のように手元をすり抜けて消えていってしまうもので、それゆえに眩しいものなのだと考えていたのだろう。小野の歌のきらめきは、とてつもなく痛々しい。戦後という時代は、夢や理想が痛々しいきらめきを発するようになるところから始まったのだとすら思えるのである。
- 作者: 小野茂樹
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