トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその121・真木勉

 真木勉は1947年生まれ。「港」短歌会を経て「短歌人」所属。富山県在住の歌人である。1994年に第1歌集『人類博物館(ミューゼ・ド・ロム)』を出している。この『人類博物館』という歌集、実はかなりの異色作である。なにしろ、「ホラー短歌」なのだ。

  「アナタには合はせる顔がないない」と言ひつつ顔はなくなつてゆく
  洗面をなす度ごとにこの顔は溶けて流れて今のつぺらぼう
  弟が欲しいと子が言へば闇の中近づいてくる見えぬ児のかげ
  電車待つをんないきなり唇(くち)すぼめふうふうふうふう赤児を冷ます
  塩焼きの鮎を上手に食ふやうに或る夜子どもを箸で押さへき
  灯のもとに屈み込みゐてメリメリと机を食らふ遠き背(そびら)見ゆ
  寝る夜は放たれゐたる目・鼻・口・耳も朝にはもとにもどりぬ
 たとえばホラー的な素材を持ち込んだ短歌というと、寺山修司の『田園に死す』のおどろおどろしい怪奇趣味などがある。だが真木の描くホラー世界は少し位相が違う。『田園に死す』は東北という特殊な舞台を設定していたが、真木が詠むのはありふれた日常のなかの奇想であり、もはや笑いと紙一重の恐怖なのである。

  三人部屋に三台のテレヴィあり それぞれ同じ「相撲」を映す
  アルマジロが子供産みたり その子供の頭から爪先までアルマジロ
  満員のエレヴェーターに乗る人ら 乗りてはすぐに入り口を向く
  次々と名前呼ばれる待合室呼ばれるたびに違ふ人立つ
  毎日が誰かの忌日 わたくしの結婚記念日がベートーヴェン
  午前中会ふ人ごとに握手をし みづからの掌(て)の感触のこる
 これらはただごと歌とも言える歌であるが、ただごと歌に特徴的である「真面目すぎるがゆえのユーモア」とはちょっと違う。描かれているのは全てが画一化されていく日常の恐怖であり、その風景を見いだせている原動力は悪意である。

  人間なるわれのうつせみは一本のフィルターとなり煙草吸ひをり
  延びてゆく神経細胞末端よりカリウム出でて憎しみ感ず
  一枚の紙の表裏が分かれゆき二枚になりゆく脳内風景
  脳内のROMの回路が開かれて君の記憶が今日はちらつく
  伏してゐし海馬傍回ゆるゆると立ち上がり来る IN MY BRAIN
  みづからの一つ一つを分け行けば自己と非自己と非自己と自己と
 真木は「脳」というものに強い関心を持っているようだ。身体を物質と感じ、今見えている世界はすべて脳が生み出した幻ではないかと疑っている。刊行のころを振り返ったエッセイではこう書いている。〈文化的であるゆえ男はとくに「脳」的である気がしてしかたがない。「生」の実感が乏しくてじつにあわれなものである。〉。真木が描こうとしている恐怖は、「文化」によって人間が生身の現実世界を喪失していくことへの恐怖なのだ。そして人間はもう「生」の実感を取り戻せない。だからこそ奇想をもって「脳」の限界に挑み、現実に対峙していこうとしているのである。