菊池孝彦(きくち・たかひこ)は1962年生まれ。1989年に「短歌人」に入会し。2010年に第1歌集「声霜」を出版した。仙台市在住の歌人である。
しやぼんだま吹けば五彩がひとときをいろどる 目のまはりをかるくして
予兆あらかた過ぎてしづもるゆふぐれや 「鳩サンノ餌買ッテヨ」と子が
影あはき少女は犬を牽きながらあるいは犬に牽かれながらに
ふんはりと帯電したるセーターを着て歩みをり寒き廊下を
草におく眼鏡さみしくすきとほる空のむかうのまあるい遊戯
保証されたる一年使ひきつてのち保証されざる残生ながし
いたって瑣末な日常の風景を切り取った歌が多い。その日常の描き方はいつもふにゃふにゃしていて、生活感があるのに同時に浮遊感もある。あとがきにて菊池は「この歌集では私は私にまつわる個人的事情の多くを書く対象にしませんでした。」と書いている。その通り、著者のパーソナリティに関する情報が詠み込まれた歌はほとんどなく(わかるのは子供がいるということくらいである)、その顔の見えない感じがこの浮遊感を生み出しているのだろう。
しかし、それにもかかわらずこの歌集は異様に「私」にこだわっているのである。
ほんのりとあたたかき夜性愛は手紙を出すにとどめおくべし
飛行機雲の伸びゆくゆふべ刻々はあらがへぬものとして身を過ぐ
世界にたつた一人といふもこの街の破片のごとく歩みゆきたり
存在の基準どこにもあらざれば「たつた一人」は揶揄のごとしも
秋の日の誰かが呼んでゐるやうな 呼んでほしいとおもふ日和に
シャッターを切りし一瞬わがまへを横切る人はわれに振り向く
レシートの溜まりすぎたる財布のごと膨らみながらこはれて自我は
立ち止まる一人となりて建築のあはひに飛行船見てゐたり
自我という観念への疑念が短歌のテーマとなっている。たった一人の私というのは本当に存在するのかという問いが繰り返し繰り返しあらわれる。実人生を徹底的に歌から排除しているのは、「意識」を個人の専属所有物とすることを否定したいからだろう。「意識」は断片であり、連続的なものではない。連続的になったときにまとわりつく叙情性を忌避することから歌がはじまっている。菊池が志向するのは感情の共感ではなく、意識の「共有」であろう。
否定すべき言葉もなくてボクはけふ「ありがたう」とある人に言はれた
いつの間に血を噴いてゐる手の甲の、こんな風に僕(キミ)は生きて来たのか
ねむたさも中くらゐにてうつすらと「ぼく」にまつはる話は聞こゆ
あれはきつとさよならだつた手を挙げてボクを見た もう微笑んでゐた
しろきシーツは死者をかたどる あはれ言葉は生前の死者をかたどるばかり
足音を引き摺つてゆく回廊のかげもかたちもわたくしである
ふゆのをはりのをはりとおもふこのゆふべ予感にをはる人生もある
多様な一人称が登場するのも「声霜」の特徴である。僕とボクでは明らかに世界の位相が異なっている。僕と書いてキミと読ませる奇妙な歌もある。菊池の思考の中で「私」自身は多様に分裂し、揺らいでいる。それが一人称というかたちで端的にあらわれている。
菊池が描く風景は基本的にとりとめがなく、秩序だってはいない。彼にとって「私」とは詠嘆するための主体ではなく、単なる現象である。きっと菊池の見ている世界は、分化しきれない無数の〈私〉という現象が、大量にうごめいているのだろう。
そんな中において唯一特別な存在として現れるのは、師と慕ってやまない高瀬一誌である。歌集随一の叙情歌である「あれはきつと〜」の歌も師の追憶を歌ったものだ。こういうところからわずかに、作者の人間性が透けて見えるように思う。
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