中田有里(なかた・ゆり)は1981年生まれ。2006年に「今日」で第5回歌葉新人賞次席となり、歌誌「pool」に所属している。
「今日」は日常生活を断片的に描いたような連作である。起伏の少ないローテンションな世界観のなかに、微妙なねじれがある不思議な味わいの短歌だ。
ゆるやかに流れる町の空気から逃げるかばんを持って電車へ
昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある
カーテンの隙間に見える雨が降る夜の手すりが水に濡れてる
本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある
堀ばたで追いかけられていたカモが今日はアヒルと仲が良さそう
駐車場の鳩を通って6月の24日の風が吹いてる
ここで描かれている風景はいたって何でもないもののように見える。しかしこの日常にはぐにゃりとした歪みがある。「街」ではなく「町」の字を用いたのは、この舞台が決して「シティ」ではなく、チープさを多分に含んだ「タウン」であることを表している。そして「今日」というタイトルにもあらわれている通り、連続性がなくぶつ切りになった時間軸がこの世界観の中に表現されている。動詞が非常に多いのが中田の短歌の特徴であるのだが、ひとつひとつの動詞が並列関係にある。いかなる動きも等価として日常の中に埋没していく。
マヨネーズ頭の上に搾られてマヨネーズと一緒に生きる
すり鉢で豆腐をすってぐちゃぐちゃにしてからあなたの口に入れたい
おはようと言えたら合格 隣人の頭に水をかけてはいけない
うし年の女の人と男の人の紹介を朝、新聞で見る
川沿いの中華料理屋にTシャツの女の子がいる職場の新年会
これらの歌にはその特徴的な歪みが比較的わかりやすいかたちで表現されている。断続的な存在として社会のなかにあり続けることの息苦しさが込められているように思う。自意識がぶつ切りになっていることは、他者との人間関係も容赦なく細切れにしていく。こうした歪みのある歌の一方で、中田は自然や季節も好んで詠む。とりわけ葉や草といった植物が頻出する。流れてゆく時間軸から追放されたように刹那的に生きる一人の都市住民に、ささやかな時の流れを伝えてくれるのが自然なのだろう。
道路からかけてる電話あなたからかかった 水を飲みながら出る
つまらない電車が過ぎるつまらないコンビニへ行くご飯を食べる
食べ物を食べてしまう 蛍光灯をつけたらまぶしい 布団を着る
いちごかグレープフルーツが食べたくてそれを買ってくる想像をする
このシャツもカーディガンもスニーカーもいつかどこかで私が選んだ
文庫本を開いて文字を読まないでスポーツのこと考えたりする
「pool」5号に掲載された連作「食べ物」は、過剰なまでの生活のむき出し感覚が印象的だ。食とは動物的な生そのものに直結する営みであり、人間性の薄いひたすらむき出しの生をルーティンとしてこなし続ける世界がここにはある。希望も絶望もなく、ただひたすら薄明るい日常の中を生きていく。求めているものは一つだけ。それは、自分が確かに生きているというリアリティだ。
詩人の田中庸介が編集発行人をしている詩誌「妃」の第15号に、中田の詩が掲載されている。短歌と変わらず、体温の低い文体で淡々と断続的な日常を描いている。もともと詩を最初に作り始め、その後に短歌と俳句も始めたというプロフィールがわかる。どんな表現方法を用いても文体が変わらないというのは、常に問題意識が一定しているという点である種の強靭さであるように思う。