浜田到(はまだ・いたる)は1918年生まれ。岡山医科大学卒業後、鹿児島で勤務医となる。1935年に潮音系の歌誌「山茶花」に参加し、のちに「歌宴」「工人」に移った。1968年に、交通事故で早世している。
地方の小さな歌誌でひっそりと活動していたが、中井英夫に見出され「短歌研究」に掲載されたのが名を知られるようになったきっかけである。しかし生前に歌集は出ておらず、没後に「架橋」という歌集一冊が遺された。
リルケに傾倒し浜田遺太郎の名で詩も書いていた浜田について、水原紫苑は「彼を歌人と言い切ってしまっていいのかためらわれる」と評するなど、短歌と詩のあいだを自由に行き交うような存在であった。おそらく生前の本人は自分を歌人とも詩人とも定義していなかっただろう。
火の匂ひ、怒りと擦れあふ束の間の冬ふかくして少年期果つ
妹よ、その微睡の髪薫る日を血よりさみしきものかよふかな
悲しみのはつか遺りし彼方、水蜜桃(すゐみつ)の夜の半球を亡母(はは)と啜れり
周りあをき雪となりつつ電球の芯なす恍惚、夜となれば射ちたし
日没の炭化しゆく街に放つ★★★一電光の一黒蝶
車輪の軋み…喊声…雪…きこえつつ雪たえいらば何をし聴かむ
とほき日にわが喪ひし一滴が少年の眼にて世界の如し
一九四九年夏世界の黄昏れに一ぴきの白い山羊が揺れている
君おらぬ机の上に稲妻のいろさだまりてしずかなる思慕
圧倒的とも言える耽美的な世界観が特徴である。短歌を読んでいることを忘れ、翻訳詩を読んでいる気分になる。耽美的な作風の歌人は数あれど、短歌の匂いをここまで消しながらもなお短歌である歌を生み出せる能力はものすごい。また、短歌への記号の導入の先駆であることも注目される。
背さむきわが死を聴けり夕雲に立てば少女の反映も永く
熟るるまじと決意する果実、雷の夜の固き芯めく少女とあり
逆光の扉(どあ)にうかび少女立てばひとつの黄昏が満たされゆかむ
やさしさの瞳(め)をされば何も見えずなり秘密の森に少女うらぶる
瞳(め)のみとなり病みゐし少女永眠(ねむ)るべく瞳を閉ざしたる夜を帰るも
刻々に睫毛蕊なす少女の生、夏ゆくと脈こめかみにうつ
瓦斯にほふ病廊のおびえ夜は沈めわが血の中を少女とほれり
葡萄蔓空に泳げばゆふひ色の少女の嘘に見惚れてありぬ
浜田の歌世界の主要な住人は「少年」「少女」「亡母」である。浜田自身の少年期の反映なのかと思わせる「少年」と、ひたすらに美しさを湛えたまま冷凍保存されたかのような「少女」像。少女に対する異常なこだわりは、成熟を拒否する浜田の美意識のあらわれである。そして「若くして狂い死にした母」という存在がしばしば登場する。この亡母が実在したかどうかはわからないが、浜田のなかにあるトラウマと、女性への愛憎の象徴が「亡母」である。
「目」やそれに付随するものをモチーフとした歌が多いのも浜田の特徴である。彼が非常に視覚優位なタイプの歌人だったというだけではなく、「水晶体」「透明な宝石」としての眼球に着目している。すべてを映し出す、透明で脆い球体。それははかない少年期の追憶であり、少女の妖精的な美しさであり、人間の一生そのものである。つまり浜田は、眼球を媒体として世界という球体に迫ろうとしていたのだ。
風にうごく窓は閉ぢ忘れられし思考にて深夜の黒き蝶の形せり
人形にのみ水晶の瞳(め)あり寒冴えし睫毛を植うるひとひたに恋ふ
つめたき夜をはたらきて来し盲人に嗅がれつつをり微笑の果(はて)
白昼の星のひかりにのみ開く扉(ドア)、天使住居街に夏こもるかな
寡黙なる愛なりしかな精霊色せる硝子街につぶす苺を
硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ
ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ
このごろの日暮れおもえば遠天を あじさいいろのふねながれゆく
ゴシック的ともいえる世界観は、幻想と耽美を愛する人の心に相当響くものがあるだろう。前衛短歌のムーブメントから距離を置いたままひっそりと死去したこの幻想歌人は、近年あらためて再評価の機運が高まっている。間違いなく、戦後日本の幻想詩の最高峰といえる「詩人」である。
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