山下泉(やました・いずみ)は「塔」所属の歌人で、2005年の第1歌集「光の引用」で第31回現代歌人集会賞を受けている。歌集には生年や出身地といったプロフィールは付されていないが、中学生のときに初めて短歌を作り、大学ではドイツ文学科でリルケを専攻したという履歴は記されている。そして後書きにもあるように、リルケと短歌の強い媒介になった存在として高安国世の影響がみられる。
「光の引用」の中に繰り広げられている世界は独特の幻想性をはらみ、まるで残酷な童話のようである。
ひっそりと人形の家に遊びいる時間の稜を溶かす少女は
雨の日のスポーツ用品店に来て子は覗きいるシューズの洞を
海に向くテーブルを恋う姉妹いて一人はリュート一人は木霊
七色のガラスを髪に飾りしが子は帽子きて鏡より出ず
緑の闇ふかき真下に語りあう少年は誰のものにもあらず
カワセミの嘴よぎる額 ねむりにも溶けない心を飼うのかこの子
放し飼いの瞳をもちて海へゆく少女は青き服を好めり
絵本原画展に少女いざなう絵となりて静かに壁にかかっていたい
これらの歌に満ちているのは、終わらない子供時代への憧れだろう。異世界と交信できるような少年少女の感性を保っていたいという思いが、奇想的な世界観の中にしばしば子供たちを登場させるのだ。
山下が好んで舞台にするロケーションとして、病院と画廊がある。病院は、管理の行き届いた真っ白な世界。社会から少しばかり遊離したような空間だ。また画廊は、絵画という別世界とダイクレトにつながっている。病院は純白で、画廊は極彩色。そこが違いだろう。
病廊は病巣のごとく野にうねる 羽曳野という古き解剖台
騙し絵のごとき木立抜ければ山原にガラスの画廊そよぎてありぬ
ゆらゆらと出光画廊の角膜に月の哀しみのムンクは架かる
翼廊を森にたためる美術館、父と見おろす老いざる父と
味苦き魂箱(たまばこ)のごと泡立ちて病棟にひらくドア限りなし
病棟の西の大窓うつくしき雲のスープを捧げておりき
花の名を唱えつつ入る治療室 わたしがわたしに戻る水辺よ
歌集には絵画のモチーフが多数登場し、自らの詩世界を絵のように鑑賞してもらいたいというメッセージがあるように感じられる。作者の人物像や人生のストーリーは一切透けて見えず、ただ不思議な世界のイメージを託してくる。病院と画廊を接着するキーワードは「廊」。長い廊下を先の見えないまま歩き続ける。そんなイメージが歌集全体に満ちている。歌集そのものが、とても静かで自分の足音ばかりが響く「廻廊」として設計されている。迷うこと。それが山下が読者に託すメッセージなのかもしれない。
夕闇の手綱を引けば耳蒼き人あらわれて「ここよ」と言いき
海の扇ひらかれし窓に向きあいて氷菓をすくう姉妹のように
雨を飼う白き部屋なりいまきみの舟形の靴が帰りつきしは
何年も声のみに会う兄なれば光の帯のひびきにて遇う
別れぎわに下唇をかんでいた貌は青葉の騙絵のなか
十五年借りたるのちは返すべきさみどりの長身月映に置く
好きなだけ傍線入れて読めるのは私の書物や時間の迷路
かたわらに子は青年として座り夕べの列車は野を曲がりゆく
この街の運河のような静けさをさかさまに行く時間も我も
われもまた行方不明の一人にて雪積むような時間に出会う
まるでひとつひとつが奇妙な絵のような歌が並ぶ、迷路のような廻廊。まさに短歌の美術館である。そしてその空間には、時間は流れない。読み進めていくにつれて時間の歌が増えていくのに気付く。瞬間を固着するような絵画にこだわるのも、先の見えない廻廊をさまよい続けるのも、時間が流れてゆくことへの反逆なのだ。時の流れにすべてを委ねるくらいなら、時のない迷路のなかを永遠にさまよい続けていたい。そんな思いに満ちた歌集は、まるで読者をその世界の中に誘い入れているような妖しい魅力を放っているのである。