未刊歌集『永遠青天症』は全既刊歌集を収めた『デジタル・ビスケット』に全篇収録されている、現在のところの荻原裕幸最新歌集である。この歌集から現在に至るまでの作風は確立されているといってよさそうだ。
虹を胡桃とバッハを夢で少しづつ消化してゐるぼくのこの頃
きみの素顔と思つてゐたらペガサスの翼に描かれてゐる星だつた
ネクタイをわれにあはせて柔らかに首を傾げるしぐさに憩ふ
それなりに熟れてゐるのか恋といふ見た目かはらぬ果実の奥は
スヌーピーのすみかを探す日常をサボテンにまで嗤はれてゐた
或る日演技のすべてを終へてあをぞらが引退するといふ結論を
このあたりから「成熟」がひとつのテーマとなっていく。「スヌーピーのすみかを探す日常」は成熟とともに失われていったものであり、その果てに「あをぞらが引退するといふ結論」を手に入れる。言語解体へのあくなき情熱とテンションの高さはは少しずつおとなしくなっていき、穏やかな日常のなかを生き続けるフラットな世界観が中心となりはじめる。
星のかけら売つてゐるかと遠き日に想ひしことも容れて、札幌
賢治風にヌーアゴニアと呼びたれど名古屋のすがた毫も紛れず
三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ
きみとゐる「いま・ここ」を強く肯へば二人を包む鰻のけむり
旅行ガイドに指を挟んだままバスの睡りの底にひろがる大和
ここにゐる、ここを世界の静脈としてみづいろの時間のなかへ
はっきりと地名を出した歌などにもあらわれている「いま・ここ」という感覚。自分の足が踏みしめている場所をしっかりと確かめることから成熟は始まる。地元名古屋のほか、出張先の北海道や旅行先の奈良が登場する。「自分の足を持つ生活者」という主体像を明確にしたあたりから、荻原裕幸の作風は読んでいてなんとなく「散歩している」ような感覚を受けるモデラートのリズムを保ち始める。
ぼくはいま、以下につらなる鮮明な述語なくして立つ夜の虹
ぺらぺらと業界用語で喋りだすぼくなんだけど誰だこいつは
三十五が近づいてゐるひたひたと菜の花でありロシアでもある
あ、http://www.jitsuzonwo.nejimagete.koiga.kokoni.hishimeku.com
フェミニストの犀がデスクの抽斗にゐるのがなぜかばれて窮地に
桃がゆつくりぼくのからだにふりそそぐ夕暮である迷路でもある
運転免許を持たないぼくがディーラーの葡萄のやうな広告を書く
二十代のほとんどを定職につかずに過ごしたという荻原は、三十代を広告制作会社でのサラリーマン生活に費やした。オフィスを舞台とした労働の現場はそれでもなおシュールな夢のような修辞に満ちている。年齢を詠み込んだ歌はこのときに始まったわけではない。実は第一歌集の時点で「二十四」を読み込んで以来、律儀にも歳を重ねるたびに年齢を詠み込んだ歌を作り続けているのである。考えようによっては、登場したときから荻原裕幸はずっと空想の中に「飛ぶ」人ではなく、夢のようなふにゃふにゃした街を「歩く」人だったのだといえる。現代歌人のなかでもひときわ異端であると同時に王道でもある、荻原裕幸。紛れもなく、現代短歌のキーパーソンである。