野樹かずみ(のぎ・かずみ)は1963年生まれ。広島大学文学部卒業。1991年に「路程記」で第34回短歌研究新人賞受賞。その後「未来」に入会し加藤治郎に師事。2006年に第1歌集「路程記」を刊行した。
新人賞の受賞から第1歌集の出版までに15年を要している。この間、フィリピンのスモーキー・マウンテン(ゴミ山のスラム街)の麓でフリースクールの運営に携わっていたという。またH氏賞詩人である河津聖恵との共著も持っている。
第1歌集の「路程記」は20年以上にわたって作られた歌の中から編まれた。
永遠の眠りを眠る始祖鳥の夢かもしれぬ世界に棲めり
かたちなき憧れゆえに漂着の重油に浮かぶ虹を見ている
どんな深い海峡があっていまわれに隔てられている名もなき故国
少年の冷たい指が弾くとき和音を拒む弦ひとつあり
わが国と呼ぶ国もたずかりそめの胸の大地はいま砂嵐
誰も見ることなき裏の顔を持つ月球ひとつ抱けりわれも
あれはどこの野原だろうか千年ののちのわたしが菜の花を摘む
「不定形」というテーマが通底しているように思う。かたちを失い、他者との境界も喪失してゆくような表現がみられる。しかし野樹はもとよりかたちをもつことを拒んでいるのだろう。それは国境に対する拒否であり、他者と自己を徹底的に峻別することへの拒否である。野樹がフィリピンの支援活動に没頭したのは、世界への違和を感じ続けているがゆえに、より自分と違う人間たち(たとえばスラムの子どもたち)の現実を体感しようとしたからなのではないか。野樹の短歌を読んでいると、「助ける」という意識というよりも他者の主体を自らの内に取り込むことが目的だったのではないかと思えてくる。
2011年の第2歌集「もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう」はその長いタイトルが特徴である。これは収録されている一首をまるまるタイトルにしてしまったもので、短歌一首を丸ごと表題にするのはかなりユニークである。
子と遊ぶ窓から見れば銀色の帆船のような冬の雲ゆく
Uの字の景色の底を走ってゆく被爆電車や新型電車
街路灯のひとつひとつを「つき」と呼ぶおまえと歩けばあかるい銀河
銀の光あわく放って子ども部屋の畳にころがっていた月球儀
呼ぶ声に応えることを思いつかぬ子であるらしい(かつてわたしも)
夜行バスの窓から見えた満月のほかは全部がゆめかもしれない
夢に大きな魚を抱いた 傷ついてレンズのような鱗が剥がれて
野樹がもともと短歌を始めたきっかけとなったのは、蝦名泰洋との出会いだという。その影響にあるのか、天体のイメージを多用した独特の幻想世界を構築している。「ゆめかもしれない」という浮遊感覚が野樹の世界の根底にある。だからこそ、野樹にとっての社会活動は短歌を創作することに負けないくらいに芸術としての意味がある。
路上の屍 連行される若者たち 朝日ジャーナルの記事など送る
便箋を透かして見えるものは何か「ぼくらは政治の話をやめよう」
「わが国(ウリナラ)」と彼らはためらわずに言う。日本を「わが国」とわたしは言えず
おかあさんって日本語で呼ぶのよおかあさん 朝鮮の子も台湾の子も
誤訳は 四千年人肉を喰らうまぎれなく俺もそのひとり、の箇所
ころびそうになりながら歩く生まれたての花嫁生まれたての植民地
異国母国超えてはばたく鳥でしょうふたつの言語を両翼として
野樹は学生時代から在日韓国人被爆者の体験記の聞き取りに携わっていた。二重の疎外を受けた者の苦しみを記録することが、作風の完成へとつながっていった。歌集には原爆、テロ、貧困、フィリピンのゴミ山といったモチーフがひたすらに綴られる。野樹はこれらの社会問題を、決して傍観者にはなろうとせずに弱者の立場の一人称で描こうとする。それはときに「虚構の主体」にもなりうることがある。それはときに、たとえば作者自身が在日韓国人であるなどのような誤解を与えることもあった。
野樹の短歌に対する取り組みは実はジャーナリスティックな要素が強く、「聞き取り」が基本にあり続けているのかもしれない。かたちなき〈私〉であることが悲しみなのではない。不定形の〈私〉が他者の悲しみや苦しみを取り込んでいく。河津聖恵との共著「天秤 わたしたちの空に」も、短歌と詩の呼応から思想家シモーヌ・ヴェイユの人生が召喚されてゆくという構造を持っていた。野樹は他者の物語の語り部となり、「召喚者」となれる特性を持った珍しい歌人なのだろう。
- 作者: 野樹かずみ,河津聖恵
- 出版社/メーカー: 澪標
- 発売日: 2009/01/30
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