大口玲子(おおぐち・りょうこ)は1969年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。「心の花」に所属し、佐佐木幸綱に師事。
作歌を始めたのは早く、高校時代から新聞歌壇に投稿をしていた。1998年、「ナショナリズムの夕立ち」で第44回角川短歌賞。1999年第1歌集「海量」で第43回現代歌人協会賞。その後第2歌集「東北」で第1回前川佐美雄賞、第3歌集「ひたかみ」で第2回葛原妙子賞と、現在までのところ刊行している歌集すべてが何らかの賞の栄誉に浴しているという、ある意味スーパーエリートである。
大口短歌の根本テーマの一つは、国家である。日本語教師が本職であり、さまざまな国籍の人々に外国語として日本語を教えてきたことで、国家と言語の関係に対する問題意識がきわめて強い。
形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり
学生も我も見上ぐるはつ夏の漢字系統樹さやげる部分
名を呼ばれ「はい」と答ふる学生のそれぞれの母語の梢が匂ふ
〈馬〉といふ漢字を習ひみづからの馬に与ふるよんほんの脚
西瓜の種ぷつと飛ばして言ふときの誰からもらひたりし日本語
簡潔で荒々しくて率直なナショナリズムの夕立が来る
言語を教えるために理論化していくと、「国語」としてそれを用いてきた自分のナショナリティそのものをおのずから突きつめて考えていくことになる。言語に対して樹木を用いた比喩を使っているのは、意識的なことである。見えないところで縦横無尽に張り巡らされた「根」のイメージが、ナショナリティに重なっているのだろう。言語はあくまでその表象、葉のようなものである。
この樹木のイメージというのは大口の世界観の基礎をなしているようだ。大学時代に農業経験を積むサークルに入っていたと第1歌集の解説にて佐佐木幸綱が記している。歌集の中にも、人間と樹木を重ねるイメージが氾濫する。
唐突に眼鏡はづして我を見る君は樹木の視座を持つ人
木を束ねよ、木を束ねよといふ声のこだまして我にかぶさる夕べ
下草を刈りすすむ人の広き背をときどき隠す木々の骨格
切実な言葉をはけよ葉をすべて落とし垂直の意志持つ木々に
倒木をどんどん跨ぎゆくわれは首の裏側で怒つてゐるぞ
逢ひたさうな素振りしたるか樹木医が樹木見るやうな目に見られゐる
夕映えに逆らふごとく耐へゐるか君の目に棲む水鶏(くひな)を放て
人間を樹木に喩えているというよりも、人間と樹木がこの世界をともに分け合っている対等な存在なのだという意識が、この詠み方には込められているように思える。人間が自然の一部にすぎないこと、人工的なものとして国家という区分けが存在すること、言語が自然と国家のどちらの領域に属するものか判然としないこと。言葉を真摯に使う人間として、そのジレンマに悩み続けていることがきっとこの知的な世界観を作り上げている。
結婚して宮城県に住むようになってからは(夫は河北新報の記者さんらしい)、「東北」というテーマも大きな柱に据えるようになった。そこは土俗的でときに排他的な、「日本」の根が深く食い込んでいるような場所として描かれている。
2005年の歌集「ひたかみ」には『神のパズル』という全100首の超大連作が発表されている。
五官では感知しえぬものとして来む、確実に来むと人はささやく
核弾頭あまた存在する不安を薄めゆく草色のテロリズム
コバルトライン走行しつつこの道が避難路とならむ日のことを言ふ
燃料プールまぶしく青く見ゆるのは北上川ゆ引かれ来しみづ
ガラス越しに広がれる海、漁業権放棄されたる海黙し見つ
七万人を殺しし一人、いちにんの竹山広を殺せざりけり
風樹のごと自らを放射線に曝し科学の殉教者は増えにけむ
妻の手にX線あてて写し出す細き手の骨と結婚指輪
女川原子力発電所を見学に行った体験をもとに、原子力について思いを馳せた連作である。レントゲンを使う医師、東北電力の社員、ジュリアス・ローゼンバーグ、久保山愛吉、竹山広、キュリー夫妻……と、とにかくものすごい数の登場人物が出てくる。この連作もまた、「国家」と同質の「目に見えない人工物」への不安が大きなテーマになっているように思う。人間が生み出しながら、人間が制御しきれなくなる可能性のあるもの。それは裏返せば、そのようなものを生み出してしまえる人間に対する不安とも言えるのかもしれない。そして樹木を愛おしげに詠み続けることは、自分たちの手に余るものを生み出そうとしない自然の構成物たちへの、決して届きようのない憧れであるように思う。
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