廣西昌也(ひろにし・まさや)は1964年生まれ。「短歌人」所属。2006年に「末期の夢」で第5回歌葉新人賞を受賞。2012年に第1歌集『神倉』(書肆侃侃房)を出版。本業は医師で、和歌山市在住である。
歌集のタイトルである『神倉』は廣西がかつて住んでいた新宮市の地名で、熊野信仰で有名な神社があるところだそうだ。身近なところにありながら異界へとつながっている空間の象徴なのだろう。廣西は、「死」を通じて人と人ならざるものが地続きになっている世界をしばしば描き出そうとする。単なる幻想ではなく、医師としての経験や理性的な視点がそこに横たわるのが特徴だ。
回送の電車がとおるうす暗い客車に僕を抱いたかあさん
あの頃の僕はよく鳴る楽器でした母はかき鳴らすのが大好き
千穂が峰の大きな影のなかにいる「僕が死んだら」「僕が死んでも」
飛んでいる鳥が落ちたりすることもあるはずなのに見たことがない
黒人の宦官はかつていざりしや優しかるらん歯がゆかるらん
子を持たぬ夫婦のことば艶やかに臨終までを響きあうなり
「性格がネズミやさけぇ」手術する積もりはないと老婆は告げり
「死」に対する関心の深さはよく伝わってくる。そして「死」に対する接し方は単なるホラーに留まっておらず、生命の根源、人間が生きていることそのものの不思議へとつながっている。
熊野を中心とした和歌山の風土も歌に大きな影響を与えている。しかし同様に熊野を詠む歌人である小黒世茂のような土俗的、民俗学的なアプローチをほとんどしない。熊野信仰の長い歴史を持つ街が、ごく普通の一地方都市のように描写される。その妙に真っ白で無菌的な空気感は、それこそ地方都市の病院の雰囲気に似ている。現代において生と死の境界線になる場所は、そこしかないのかもしれない。
弟よ星が無限に落ちてきて僕らに父がいた夏がある
廣西さん、名前は何?と問われるに坂本と言う旧姓を言う
「おとうさん」幼いころの言い方でこわれた人に呼びかけてみる
病窓に下界を見れば辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ
父をいま満たす水あり蕭々と暗黒へ向け流れゆく水
弟が、僕が乳児になっていて父が思わずいないいなーい、
歌葉新人賞受賞作『末期の夢』は、父の認知症から臨終に至るまでの日々を描いた連作だと思われる。しかし全体として奇妙にねじれた世界観である。時間が止まって過去へと戻っていく父に引きずられるように、成長して大人になっているはずの「僕」と「弟」すらも過去へと遡行していく。「こわれた」父を突き放すのではなく、その内面世界に寄り添って時間軸を組み立てている。「此岸」と「彼岸」の差は、実はそれほどはっきりとしたものではないのかもしれない。「辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ」。「僕」自身が父のなかの異界へと引きずり込まれかけている、まさに「境界」のただなかにいる瞬間の歌である。命と接するということは、異界と接することにほかならない。
午後四時に生まれ六時に死んだので一子のながいながい二時間
この子だけでも残ったと言われただろう保育器の中眠ってる僕
くらやみの液体のなかお互いを知らないままに十月十日
羊水のなかに身体を重ね合うリズムは二人おんなじだった
友だちに決して見えない影があり僕の隣で揺れつづけてた
僕はいま陸生なれど永遠に一子は海生動物のまま
一子ではない女から戻りきて霧の線路を歩く明け方
速達はむらさき色に濡れていて忘れなさいとだけ書いてある
ゆうぐれは触覚だけがたよりですなま暖かいものが右手に
廣西の「死」に対する執着は幼少時代からのもので、医師という職業を選んだのもその帰結らしい。歌集の最後を飾る連作「一子 ichiko」はとてつもない風圧を放つ衝撃的なものであり、この連作のためだけにでも歌集を読んでほしいと思う。生後間もなくして亡くなった双子の妹についての歌である。
これが廣西本人の実体験なのかどうかはわからない。なぜなら「僕たちは昭和四十三年の生まれ」という歌が入っているが、廣西自身は昭和三十九年生まれだからである。もしかしたら双子だったのは弟であり、その立場に成り代わって詠んだものなのかもしれない。あるいは全くのフィクションかもしれない。
なんにせよこの連作が衝撃を与えてくれるのは、生まれたもの=陸生、生まれなかったもの=海生という二分法だろう。「水」を介して命と命ならざるものは隔てられてしまう。そして全く同じ羊水のなかにいる双子ですらも、その内部で生死が分かたれることがある。手を伸ばせばすぐに届くけれど、伸ばしてしまったらもう二度と戻れなくなる海の向こうが、すぐ近くにある。そこが命の境界なのだ。
廣西の命や死に対するスタンスはとてつもなく真摯なものだ。医師なのだから当然ともいえるのだが、職業的なものではなくもっと人間の極限の部分から命や死へと向かい合っているように思う。そのルーツに、この実在したともしなかったともいえる「一子」の影があるのだと思うと、納得できる気もする。
- 作者: 廣西昌也
- 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
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