荒井直子(あらい・なおこ)は「塔」所属。2005年に「紙の柩」で第48回短歌研究新人賞候補となり、同年に第1歌集『はるじょおん』(ながらみ書房)を出版した。作歌を始めたのは1995年、20歳のときだったということなので1975年頃の生まれということになる。短歌を始めた当時は北海道大学在学中で、松川洋子に学んでいた。歌集の選歌・構成には花山多佳子が関わっている。
短歌研究新人賞候補作「紙の柩」は自らの死産の経験をテーマにした一連である。
明日になればこの子はいなくなってしまうわずかに膨らみし腹をさすりぬ
生きた子を産む人の室は二階にてわが病室は三階にあり
死んだ子を産まねばならぬ私は陣痛促進のため廊下を歩く
身体とはげに素直なり娩出をすればすなわち母乳が出ずる
ボール紙の小さな箱を柩としおまえは横を向いてねており
うつ伏せに寝ていいことの真寂しく暗闇に目を開いていたり
死んだ子を産んだ私も産婦にて産後休暇を八週間もらう
氏名欄は「満十五週胎児」なりおまえは名前の必要ない子
悲痛な作品である。死産であっても普通の産婦と同様の手続きや行動をとらなければならないということへの種々の発見が基本となっており、その視線はあまり情緒的ではなく理性的だ。そのことが余計に悲痛さを生むのだろうか。この死産という経験においては「生」と「死」という究極のものであったが、この「紙の柩」以外にも荒井の歌には、取り返しのつくものとつかないものとの差は決して大きいものではなく薄い膜に隔てられているにすぎないという観念が横たわっているものが目立つ。
今日君の名前を知ったさくらんぼほおばるように舌にころがす
ドアを閉め忘れた君の腰のあたりワオキツネザルのしっぽがチラリ
ぬばたまのやみあがりひとり臥しおるに君は知らないわれの体温
中国では薬の組成を見ちゃいけない蝉入りかぜぐすりもあるから
私が辞めれば鉢に水をやる人がいなくなるから辞めない
反論をすればよかった 書庫に行く途中返すべき言葉思いつく
風があまりに強くて顔をあげられない常に前を見てなんかいられない
イリオモテヤマネコに似ていますねと言われた人の妻になろうか
基本的には連作型の歌人であり、一連ごとにまったく異なるテーマを扱う。就職活動に苦労しているときのもの、市役所で働いているときのもの、死期を迎えようとしている愛犬を描いたものなど、それぞれの連作がかなり断片的であり、写真一枚ごとに時間がやたらと飛ぶアルバムを見せられているような印象を受ける。歌誌掲載作を再構成せずにそのまま転載したのだろうか。第2章では外国をテーマにした作品が並んでおり、比較的コンセプチャルなまとまりがある。
身籠るとはかく凄まじきものなるか ししゃものからだの八割たまご
かいわれは何か哀しき野菜なりハートをふたつも持っているのに
死んだ肉をだらだら食べながらわれらいつか生まれる子の話する
大根と歌集を買って帰る道つまづきながら君の妻である
スーパーのパックに入った魚のうち鮎がもっとも悲しそうなり
絶え間なき苦痛の中に夫を罵り助産師を罵らぬ理性あり
哺乳類なるわたくしはみどりごに乳を吸わせる昼間も夜も
「産む」こと、そして「生」への執着が強いのは出産や死産という経験をするずっと前のことからのようである。もともと「命」のゆらめきに非常に敏感な人なのである。そして歌の根本にあるのは、実はユーモアであるように思う。荒井のユーモアセンスがもっとも輝くのは、人命というものを絶対的に神聖なものとせずにクールな手つきで取り扱うときである。佐々木倫子の漫画「動物のお医者さん」の、動物と人間を同列に扱う会話が平然となされることがギャグとなっていたあの空気感を思い出す。そしてむしろこのようなクールな表現をするタイプの人の方が、命の尊さをはるかに知っているように思える瞬間がある。そこが、荒井直子の得難い個性なのだろう。
- 作者: 荒井直子
- 出版社/メーカー: ながらみ書房
- 発売日: 2005/10
- メディア: 単行本
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