野口恵子(のぐち・けいこ)は1975年生まれ。早稲田大学理工学部卒業。シンクタンクに勤務するかたわら、田島邦彦が講師を務めていた短歌教室に通い始めたのがきっかけで2003年に「開放区」に参加。2005年に第1歌集「東京遊泳」を出版している。
「東京遊泳」という歌集のタイトルはこれ以上ないほどぴったりなものであり、「都市を泳ぐ」というイメージが歌のなかに頻出する。
冷涼の春霖を吸うわたくしに鱗の生えて青く光れり
上昇の気流に乗りて遊泳す高層ビルのアップダウンを
原始の日の光に触れて羊歯類が生い茂るなり都会の夜に
東京の夜の雲にはうっすらと魚群の影が映されている
もっそりと柔き甲羅の動き出し籠り沼に帰す東京ドーム
鉄筋のビルが生み出す静けさは千年あとの無人の地球
海中をクラゲとなりて泳ぎだす湾岸沿いの巨大タンクは
わたくしのヒールが作りし水紋が東京タワーをくゆらせている
歌集あとがきによるともともとスキューバダイビングを最初の趣味として始め、南の島に行けないときは夜の東京を散歩するようになったそうだ。短歌に出会ったのはその後のことである。元来「水」に親和性があり、「泳ぐ」行為への希求が強かったのだろう。「東京遊泳」のイメージは東京が水没したというものではない。現代の都市と太古の海のイメージの混交である。野口にとって「泳ぐ」先にあるものは、太古の時代への回帰なのである。
凍土から発掘されたマンモスが疼きだしたり春日を浴びて
両の手をそよがせながら森を行く吾は息づく世界の一部
始生代の隆起に降りし春雨か薄むらさきに染まりて森羅
のびやかに蛙の胎は伸縮し地球の鼓動に近づいてゆく
青藍の銀河を渡るウミガメが産卵をする星満ちる空
十文字に組んだ手房に息を掛け未受精卵を温めている
緩やかな太古の隆起を思わせて呼吸をしたり広い胸板
マングローブ林のように絡まった思考が解ける風に吹かれて
人間が存在する以前の地球に思いを馳せるような、スケールの大きな歌が目立つ。地球と宇宙がもっと地続きであった時代への憧憬が、そのまま自分が生きているこの世界への賛歌となっているように思える。スキューバダイビングで海に入りそのまま海の一部へと溶けていってしまうような、人間と自然の境目がない世界を希求しているかのようだ。
わたくしは気だるき夕べのビル街にビット文字列量産をする
ベランダに水着を干せば八月の淀んだ時間が動き出すなり
ひらひらと都会の空に舞い上がる珈琲カップの縁の口紅
未来型アリの巣中にいるような羽田空港ターミナル前
光彩の赤坂通りを行く吾は水中浮力になじめずにいる
繊細に組み立てられた大都市は氷細工の回転木馬
リビングに深夜零時に現れる底なし沼に沈む半身
自然への融合願望は、裏返せばデジタルに情報化された都市への反発という意味合いもあるのだろう。小さな「怪奇」であふれるディストピアチックな東京を描きながらも、しかしその日常の中から自然へと地続きの瞬間をつかまえようとアンテナを張り続けている。日本のどこにも満ちた「水」というモチーフは、媒介として最も適したものなのだろう。「東京遊泳」というイメージは、ただ流れにまかせてたゆたうばかりではなく、ある一定の方向をめざしてまっすぐに泳ぎ続ける一人の人間の姿が込められているのである。
- 作者: 野口恵子
- 出版社/メーカー: ながらみ書房
- 発売日: 2005
- メディア: 単行本
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