トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその202・佐藤りえ

 佐藤りえ(さとう・りえ)は1973年生まれ。1997年「短歌人」入会、同人を経て現在は無所属。2003年に第1歌集『フラジャイル』を刊行している。
 『フラジャイル』というタイトルの意味は「取扱注意」。荷物の輸送時に使われる表示である。その意味の通り、触っただけで砕けてしまいそうな繊細さを持った歌が目立つ。

  蝶の背のピンを抜いてももう二度と飛ばないことはわかっていたのに


  こなごなになってしまったいいことも嫌な思いも綺麗な粒ね


  一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリ


  嘘だから ミネラル水に投げ込んだ錠剤が金の泡になるまで


  連れてって地球を載せた海亀の甲羅の(思いの)終わるところまで


  雪つぶていくつも投げてこの海をあふれさせるとあなたは言った


  わたしたちはなんて遠くへきたのだろう四季の水辺に素足を浸し

 涙腺が決壊して泣き出してしまう直前のような、感情がぎりぎりのところまで来ている瞬間を捉えた歌たちだ。不可能なこと、もう決して叶わないこと、限界が近くまで来ていること、それらを自覚しながらしかしそのまま引き返すことが出来ない。まさに「フラジャイル」としか言いようのない、壊れやすいがゆえのきらめきがここにはたくさん散りばめてある。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる


  駅裏のへんな形にからまった自転車を見て泣いたはつなつ


  責めるなかれピクルス抜きのバーガーを目的を持たない脱走を


  ポップコーンの最後の一個は種でしたユメミガオカノサカナイハナノ


  偽物の光であれば包まれるアミューズメントパーク、夕凪


  コンビニを探す真夜中核直後なのか人無き西新宿は


  何もない島へ行こうよ日常のすべては死んだ珊瑚のようだ


  「噴水の蛇口をひねる人」というアルバイトなし夏雲高し

 都市のイメージが頻出する。「美しが丘」や「ユメミガオカ」は同名の地名もあるが、「どこにでもある平凡なニュータウン」のイメージを象徴したネーミングなのではないかと思う。佐藤の見る都市社会は「目的」や「合理性」に蝕まれ続けた世界であり、「へんな形にからまった自転車」も「目的を持たない脱走」も「「噴水の蛇口をひねる人」というアルバイト」も、都市のエアポケットに落ちてしまった無用物だ。そして佐藤がシンパシーを感じるものは、いつだってそんな無用物たちなのだ。

  二人だけを信じるという難易度の高いゲームをわたしとしよう


  オレンジの輪切りを口に押し当てて上目遣いにするなよ合図


  帰らないかもしれない家で煮詰まって煮詰まっていくクリームシチュー


  蛍光灯の下に集いて家族とはほくろの多き集団なりき


  バームクーヘンが丸くない国へ行く きっとけんかの少ない国へ


  積み木箱の収まりきらないきれっぱしそのように家族は壊れたり


  最低の恋人だったぼくたちはゴーダチーズを指でえぐった


  そのわけはきかないでいて掌のスノードームの雪が止むまで


  切り分けたプリンスメロンの半分を冷蔵庫上段のひかりへ

 歌集のなかでとりわけ異色を醸し出しているのは、家族を描いた「幻の光」の一連。具体的なことは語らず詩的な表現で家族の不和を表現する手つきに、佐藤の心の奥にあるトラウマが垣間見える。また、「円」のイメージがネガティブな印象とともに描写されることが多いのも特徴だ。本来なら融和や平穏の象徴であるはずの「円」というかたちが、佐藤にとっては崩壊の象徴であり、苦しみの原因でしかなかった。このことに気付いて以降、丸いものがあらわれるたびに心の傷が象徴されているように思えてくる。『フラジャイル』の表示が注意を喚起しているのは、それが貼られた四角い箱ではなくあくまでその中身だ。それは覗くことはできない。『フラジャイル』という歌集は、目で見ることのできない無数の傷をその内部に隠しているのである。

フラジャイル―佐藤りえ歌集

フラジャイル―佐藤りえ歌集