トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその193・佐久間章孔

 佐久間章孔(さくま・のりよし)は1948年生まれ。日本大学中退。「未来」にて岡井隆に師事。1988年、「私小説8(曲馬団異聞)」で第31回短歌研究新人賞を受賞。歌集に『声だけがのこる』(1988)がある。
 アンソロジー『現代の第一歌集 次代の群像』に収められたエッセイでは、「この歌集はなんとしても『昭和』のうちに出したかった」「「ああ、これは残党の抒情だ。」と痛感した」と綴られている。奇しくもこの歌集出版後1ヶ月も経たないうちに昭和は終わってしまうわけだが、「昭和」「戦後」というものへの問題意識の強い思想歌人であることがわかる。

  曲馬団の旗を掲げるさ シンナーの匂い優しい少女を募り


  普遍的観念の逆襲をこそ企まんポップなコピーの比喩する街で


  くらがりでクールなやつが喋ってる「おたがい、巻かれちまうだろうな」


  いつしかに日はほのぐれてねえあなた土俗の淵はもうすぐですよ


  バースデイ・パーテイの日にただひとりで死んでいること 小綺麗にして


  ぼくたちを跳びこえてゆく跳躍のとてもしずかな前触れの鈴


  嬢やすべては夢ですよ あの事故で国家(くに)も党派も一生(ひとよ)限りに


  さくらあわれ韻律あわれ負け組はせめて無頼の破調口語左派

 口語を積極に用いているのだが、同様に口語を使うライトヴァースへの揶揄めいた歌も見られる。「曲馬団」「サーカス」というモチーフからして。大衆性を志向する作歌姿勢のメタファーなのかもしれない。そしてそれは、イメージが実体を離れて肥大化していったような時代状況全体への揶揄でもあったのだろう。また、「すべては夢」という虚無的な歌も多く見られる。「昭和」「戦後」という問題を考え続けて、あくまで自分をは敗残者であることから逃れられないという結論に至った。その結果としての虚無。イメージのみが肥大化していったのは文化のみに起こる現象ではなかった。政治も国家も、社会すべてがそうなっていった。昭和が終わった後に雪崩のように起こったベルリンの壁崩壊、湾岸戦争ソ連崩壊といった社会現象は、ある意味「イメージの決壊」ともいえるものだった。

  抜いた球だけで三振をとるそうな とにもかくにも野球は新浦


  男とは一回(イニング)ごとに替えるシャツ一球入魂野球は新浦


  過ぎし日の静岡商業(せいしょう)グランド 語尾たかき差別語はもう聞こえないけど


  三振を数えてゆけば夕焼けて世界はそこにただ佇(た)っていた


  この邦(くに)のどの路地からも一人ずつ野球の方へ旅立つ不思議


  「追放は巨人の常よ」海峡を還る左腕に風がささやく


  はたせない約束をして背を丸め背広の男は消える いつでも


  ぼくたちの近代の火を捨てるから虹の堤をかえしておくれ


  うつうつら時代(とき)のもなかをゆくときの超絶技巧の曲がらぬカーブ

 長大な連作「新浦投手物語」は、かつて読売ジャイアンツの投手であった新浦壽夫を主人公としている。関川夏央『海峡を超えたホームラン』にもその生涯が描かれているが、在日韓国人であったために日本球界に振り回され、韓国と日本のプロ野球を転々とした。佐久間はこの新浦投手に異様なまでの思い入れを発揮して、このような連作を作り上げている。それはおそらく、自分と同じ「戦後日本に翻弄された男」という像を見ていたからだろう。どんなにイメージが肥大化しても拭い去ることのできない、「現実」の重さの前に打ちのめされ続ける人間の姿を、あくまで追いかけていたのである。

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