柴田瞳は1979年生まれ。法政大学文学部英文科卒業。「心の花」を経て「かばん」所属。「月は燃え出しそうなオレンジ」で2002年に第45回短歌研究新人賞候補となり、2004年に第1歌集「月は燃え出しそうなオレンジ」を刊行した。
短歌をはじめたのは早く、高校生時代からの歌が歌集には収められている。学生時代の歌はまさに青春歌といった調子の気持ちのいい歌が目立つ。
水に溶けそうな想いを綴るにはライトブルーのこのペンがいい
ペダル漕ぐ足に力を入れてゆくポニーテールは風に預けて
旧校舎の柱が抜かれ崩れ去る爆音全校生徒に届く
オレンジに塗り潰される君の地図の「果樹園」の記号になりたかった日
あの曲がミリオンセラーになったなら百万分の二は我と君
午後の陽に輝くバスに乗りこんでトキの朱鷺色確かめにゆく
ライバルは数多けれど飛ぶように売れてゆくのはポケット六法
しかし本当に柴田の独特の魅力が出てくるのは、成人以降のブラックユーモアあふれる歌のほうである。とりわけ社会人になってからの、労働をテーマにした歌などに毒は冴えわたる。
カルシウム強化月間始まりの朝ゆっくりと蘇生してゆく
口紅がだらりと溶けた女だけ我を見ている最終電車
試乗するためではなくて男らはコンパニオンを撮るため来たり
まだ酔いの残る頭で軽石をもらったわけを考えてみる
"辞メタイ"の心映して直しても直しても名札は裏返る
忘れてた短い髪の洗いかた君を最後に洗った日から
一度だけ触れた男の着メロはビタースイートサンバにしとけ
この電車に一人くらいはいるだろう今日誕生日の人おめでとう
おもしろいくらい電話が来なくってネイルアートは会心の出来
不特定多数の人間のなかから適当に誕生日を祝うという行為は、慈愛にあふれるように見えて実のところあまり微笑ましいものではない。特定の祝う相手を持たない(もしくは失った)のだから、むしろ捨て鉢で痛々しい行為である。こういったブラックユーモア的な歌は制作順で編まれた歌集の後半に目立つ。しかしそういう歌ばかりであれば決して歌集は成功しなかっただろう。前半部の素直な青春歌との同一性があるからこそ、必死で世界と闘う作中主体の姿と、その痛々しさゆえの愛らしさが際立つ。それは巧みな自己客観視のたまものともいえるだろう。
試験場に連れてゆくものゆかぬもの選ぶは少し胸が痛んで
溺愛の果てにあるのは自滅だと諭され目玉焼きが泣き出す
つないだ手いつか手錠に変わってもいいと思っている月の下
禁断の植物畑風に揺れケシは毒にも薬にもなる
優等生じゃないんだってば駅前の自転車たちをドミノ倒しに
着せられた小さな罪を脱ぐこともできず火星の石になりたい
都合良く生きるためにはいくつかの守り過ぎてはいけないルール
表題作ともなった連作「月は燃え出しそうなオレンジ」は弟を溺愛する姉を主体としている。姉弟の関係に闖入者として現れる「君」との関係が重要なファクターとなっているが、連作全体に張り付くかすかな禁断の香りが魅力である。このように、「罪」というテーマが柴田の短歌では重要な意味を持っている。他者との関係をつくるにも壊すにもつねに、自分自身の中の潜在的な罪悪感につきまとわれている。他者を愛しても攻撃してもどこか痛々しさが垣間見えるのは、生きていることへの「原罪」的な感覚ゆえなのかもしれない。そして意識しているにせよ無意識にせよその感覚に対する自覚があるために、自己を徹底的に突き放す視点を持つことに成功しているのだろう。