古谷智子(ふるや・ともこ)は1944年生まれ。青山学院大学文学部卒業。1975年に中部短歌会に入会し、春日井建、稲葉京子に師事。1984年の第30回角川短歌賞で「神の痛みの神学のオブリガード」で次席となり、1985年に同タイトルの第1歌集を出版した。
「神の痛みの神学」とは北森嘉蔵が執筆したキリスト教神学書のタイトル。第1歌集にはどこか西洋的で瑞々しい世界が表現された歌が並んでいる。
はつなつのひかり明るき蔵書館幼きものと書を選びをり
未だ名も付けざるままに逃せしと少年がふと子兎を言ふ
地球儀を運ぶ少年 紺碧の海を頭上に掲げつつゆく
かくれ鬼の少年の声闇ふかき椎の葉むらにくぐもり聞こゆ
青澄みしまなこ瞠く少年の憂ひはとはに葉がくれの房
円錐曲線試論少年パスカルの孤心するどく研がれしならむ
そのかみの水の記憶に連なりて春の潮は明るみゐたり
ものはみな見えわたりかつ隔りてつねにひとりと思ふ水中
「少年」の歌の多さが印象的である。春日井建が描く耽美的な青年像や、葛原妙子の少年愛的な世界とはまた違う少年像。それは古谷自身の子供のイメージと地続きになっている部分もあるのだろう。しかし森岡貞香ほど少年像の背後にある「母」としての自己の影が濃くはない。独特の憂いと暗さも帯びている一方で、さわやかな風の感触もまた残っている。
泳がむと少年夕べ刈り上げし頭髪青く一夏を匂ふ
泳ぎゆく君は視界を遠ざかりつひに見知らぬ男の背
マラソンの少年ら諸共に弾みたつひとむれの声となりて過ぎゆく
スタート・ブロック一気に蹴らむその四肢の力たはめて膝つく走者
スパートパートナーとなりくれし子の渾身のかりそめならぬ速力を追ふ
身の芯を伝ひのぼれる熱の量噴く汗ほどの思想はもたぬ
息あえて追へどなほある僅少差君もやさしき走者にあらね
この歌集の特徴として、水泳と陸上競技の歌があることが挙げられる。水泳は古谷自身の実際の趣味らしく、また「少年」と強く結びついている陸上競技は息子がやっていたものなのかもしれない。知的・技巧的に処理された世界観を創りだす一方でこうした濃厚な身体性を湛えた歌もあり、そしてそれが決してミスマッチではない。綿密に設計された異世界を空想の中で構築するのではなく、身体や身近な他者という地続きの存在を通じてロマンを導きだしてゆく。それが古谷の志向なのだろう。
交差点に塞き止められす人の群むれの中にて群を見てをり
無人のエレベーターは下りきて仄かに明るき胸腔ひらけり
モデルハウスの扉(ひ)を鎖(さ)し出づるこの街の真偽おぼろに暮れそめむとす
急き走る車が瞬時街角のショーウィンドーを飾りて消えぬ
都庁舎の外壁あはき電飾に照らされ春の海ゆく母艦
帰路遅き街頭に立つ透明な電話ボックスに電話鳴りゐる
カーブミラーに映らぬ一台車体低く唸りて都心の闇に消えゆく
水瓶の形に水はひつそりと置かれてゐたり秋の門辺に
髪を切る音はかすかに雨に和し身の内側もけぶりてゆけり
第1歌集以降は「ロビンソンの羊」「オルガノン」「ガリバーの庭」といった歌集を持つが、都市詠が目立つようになっている。古谷が切り取る都市風景はやはり憂いと暗さを帯びているが、しかし底知れぬ闇を抱えているという風ではない。古谷にとって「少年」と「都市」は鏡合わせの存在なのかもしれない。どんなに追いかけても届かない領域を持った愛しき他者としての「都市」。家を買いに来る人々への興味からモデルハウスの説明員として働き始めたことがあるという作者だけに、都市を「成長して変化していくもの」「いつまでも未完のもの」と捉えて描こうとしているところにユニークさがあるのだと思う。
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