試合開始のコール忘れて審判は風の匂いにめをとじたまま
第1歌集「シンジケート」から。「シンジケート」には野球をモチーフとした歌がいくらか見られる。「ボールボーイの肩を叩いて教えよう自由の女神のスリーサイズを」や「夏の雲 水兵さんが甲板のベースボールできめる盗塁」といった歌は、アメリカ的なモチーフとともに描写されており日本のプロ野球よりもメジャーリーグをイメージさせるような描き方である。野球は典型的な「アメリカ型娯楽」の象徴なのだろう。
この歌の審判は、「プレイボール」を告げるのを忘れ、目をとじて風の匂いに浸っている。野球の試合は巨大な娯楽であり、現実を忘れさせてくれる3時間だけの「王国」である。たとえばディズニーランドという名称に端的にあらわれているが、アメリカ文化の本質は人間が集まって自然とコミュニティが発達してゆく「ネイション」ではなく、まずどんと「場」をつくりそこを理想の地として後付け的に人間が集まってくる「ランド」にあると思う。野球の試合もまた、現実から切り離された理想の時間を求めて行われる一過性の「ランド」なのだ。
しかし審判は「ランド」の創立宣言を忘れる。そして風の匂いというきわめて情緒的なものに心を打たれたままひたすら沈黙する。審判は、ジャッジメント。対立を裁量し最終決定を下す権力の象徴である。権力が情緒になびき沈黙するという状況が寓意するものは、人間が理想の王国をつくりあげることの限界であろう。理想の「場」をつくりあげる以前から、そこには自然という抗いきれない巨大なものがあった。風はたとえば海や森など遠くにあるものの匂いすらも簡単に運んでくるだろう。その伝達性は人間が追いつくにはそうとう難しいものである。
風の匂いにめをとじた審判は、おそらくうっとりしているのだと思う。人間では太刀打ちできない圧倒的な力に惚れ惚れしているのだ。穂村弘の歌は、アメリカ文化へのシャープな考察が実はなかなかあるのだと思う。