トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその67・大村陽子

 大村陽子は1956年生まれ。1987年「形成」入会。1991年に「さびしい男この指とまれ」で第2回歌壇賞を受賞し、1993年に第1歌集「砂はこぼれて」を刊行した。
 大村の歌の特徴は、きらめくような詩的センスの中に巧みに毒を混ぜてくるところにある。世界を見る視点がつねにどこか歪みを持っている。決して世界を肯定しない。そんな態度が見え隠れする。

  パラソルをさして見てゐる海面の無数の擦過傷のかがやき

  ここに来て触れてと誘ふ地下鉄のレールはほそき銀のくちなは

  処女が着るために売られてゐるやうなガラスケースの白いブラウス

  誰にでもこの腹を貸してあげますとコインロッカーが並んでをりぬ

  ランニングシャツを脱ぎゆく少年のアクセサリーのやうなる乳首

  ひろげたるフォトグラフィーの砂漠から砂がわが膝にこぼれはじめぬ
  少年の睫毛ひき抜く手応へを知りたし花の蘂(しべ)をひき抜く

  なきわめくツクツクボウシつくづくとわれに夫なし子もなし楽し

  つねにつねに黄身は白身に庇われて心地よからむ 殻割つてやる

  真夜中の大鍋を煮えたぎらせて水の苦しむさまを見てゐつ

  男からブタクサなみに嫌はるることの快感 タバスコを振る

 海面の波頭のかがやきを「無数の擦過傷」と表現するのは非常に美しい表現である。しかしその美しさの裏にある悪意にも気付かなければならない。美しい詩的処理によってマイルドになっているが、世界とはほんとうは気持ち悪いものなのだという意識がつねに歌の裏に張り付いている。「殻割つてやる」に象徴されるような、ぬくぬくと保護されている存在への憎悪というのが心の基盤をつくっているのだろう。「夫も子もない」身であることがやはり大きいのだろうか。正面から悪意を爆発させるのではなく、ぐにゃりと情景を歪ませてとげのように悪意を出してくるいやらしさが面白い。

  わたくしの身体がジグソーパズルなら風が分解してくれるのに

  <愛>といふ嫌ひな文字が多すぎて宝塚歌劇のパンフレット閉づ

  もう一度胎児となつてわが母の腹を蹴りたし憎しみこめて

  そんなにも愛されたいの カイワレのみどりの葉っぱはハートのかたち

  わたくしを見ないでくださいサボテンに変身してゆくところですから

  わたくしのまはりを飛ぶな 鱗粉に指よごしつつ蝶を煮てゐる

  ふかぶかと膝を抱へてうづくまる胎児といふはさびしきかたち

  家族よりも緊密に繋がりあつてゐて驟雨を弾く石垣の石

  冷蔵庫のドアあけたれば照らさるる無防備すぎるわれの太腿

 「私」を詠んだ歌からも見て取れるのが徹底的な「愛」への憎悪であり、その背景にある家族の物語である。おそらくは石垣の石ほどの繋がりもない家庭だったのだろう。そして愛情憎悪の果てにあらわれるのが自己分解願望である。世界を決して肯定しないことは、やがて自分自身の否定にもつながっていく。そして自分ひとりだけが消えるよりもせめて家族に、そして世界に復讐をしたいとも願っている。こうした悪意をはっきりと言葉にすることを決して社会は歓迎しようとはしない。だからこそ、短歌という詩形に乗せることで昇華させたのだろう。何かに対して「憎い」「嫌いだ」と叫びたい。そういう思いのクッション役としても短歌は機能しうるのだ。
 大村の歌にしばしば登場する父の姿はとても印象的である。どうやらかつては出征し、今は病気を患って介護を受けているようである。憎悪とも愛情ともいえぬ屈折した感情が、父の姿に叩き付けられている。

  わが父が犬の乳房を揉みながら慰安婦きぬ江の黒子(ほくろ)を言へり

  樹には樹の風には風の匂ひあり われには父の吐瀉物の匂ひ

  背をまるめスープをすすつてゐる父はたてがみのみな抜けしライオン

  父の七不思議のひとつ 台所で軍歌うたへば翌日は雨
  時間(タイムラグ)のずれ懐かしきかな目つむりて姑娘(クーニャン)といふ父の発音

  ライターをかざせば燃えてしまひさうな空を見てゐる父と並んで

  さびしくて絵本を膝にひろげれば斧といふ字に父をみつけた

 父権の失墜を悪意をもって執拗に描いているわけだが、どこか情を断ち切れない部分が残っているところが面白い。父が元軍人であることからも、父という個人が近代の家父長制そのものに重ね合わせられているのだろうか。大村は決して自己憐憫でもって自らを救おうとはしない。目の前の現実をしっかりと捉え、戦いを挑むことで自己を救済しようとする。それは弱さを装う姿よりもはるかに悲痛なのかもしれない。