トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・92

 「さかさまに電池を入れられた玩具(おもちゃ)の汽車みたいにおとなしいのね」

 第1歌集「シンジケート」から。「シンジケート」において括弧にくくられた言葉は女性の発話であり、絶対的に触れられない他者の言葉としてあらわれる。「おとなしいのね」という断定は作中主体にとって正面から言われることへの抵抗があったとともに、それまでも何度も言われてきて自覚していたことなのかもしれない。「さかさまに電池を入れられた玩具の汽車みたい」という直喩で歌の大半が成立しているが、過剰なまでの修辞を伴って発話する女性という虚像的なイメージが不思議なコケティッシュさを放っている。
 この歌は31音だが、五七五七七の定型は微妙に崩れている。「さかさまに電池を入れられた汽車の玩具みたいにおとなしいのね」であったら、句またがりはありつつももう少し読み下しやすいリズムになる。しかしそうはしなかった。その理由はおそらく、「おとなしい」ことと「饒舌」であることとの対比にあるのだろう。この発話者である女性は過剰にレトリカルな口語を用いており、はっきりと「饒舌」である。饒舌であるがゆえに定型は微妙に崩れ、ぎくしゃくしたリズムを生み出す。「おとなしい」ことは歪みを生み出さないことだ。過剰にレトリカルな発話をしながら、かっちりとしたリズムにはまることを拒むように自由に話していく。そんな風に「おとなしいのね」と断じられたことで、作中主体はおそらく戸惑いながらも惹かれていっているように思う。実はそんな恋のはじまりの歌に感じられるのだ。
 「さかさまに電池を入れられる」というのはそれまで持っていた価値観が反転していくことである。そして不具合を起こした玩具のがちゃがちゃとした感じが少し崩れたリズムに託されている。今まで思いもしていなかったような女性に惹かれていく瞬間がここに描かれているのだろう。