鶴田伊津は「短歌人」所属で、2007年に第1歌集「百年の眠り」を刊行している。正確な年齢はわからないが、おそらく30代くらいだろう。「短歌人」に入会したのは1996年で、2003年に短歌人賞を受賞している。歌集からわかるプロフィールは、和歌山は熊野の出身であること、大学時代は「肌の弾力性診断システムの開発」という研究をしていたこと、子育て中であることくらいである。
掲載歌は編年順に並んでおり、歌集の序盤には20代のころのみずみずしい歌が並ぶ。
夜の河の冥さ秘めたる君の眼にあらがえぬままTシャツを脱ぐ
離れればたちまち淡くなりてゆく水溶性の愛を淋しむ
あと何度後悔すれば薄荷糖なめたるようにすんとするのか
しゃぼん玉よるのそらへとはなちたるもうしかられることなきふたり
てのひらに雨を一粒受け止めて泣き出す代わりに笑い出したり
君の名をつぶやくたびに胸のなか繰り返されるイルカのジャンプ
さわやかな青春歌であるが、性の香りがどこかに張り付いている。鶴田の歌の中には「生殖と身体」というテーマが一貫して流れている。それも結婚、出産を経験する前からそういう傾向がある。
木が我を抱くのか我が木を抱くかわからぬままに安らぐ身体
触覚もひれも翼も捨て去りて君抱くための腕を選びぬ
生殖をなし得ぬ花の飾られし部屋で抱き合う時のしずけさ
水を産む夏の身体を陽にさらすたった一人を憶うは難し
せいよくはふいにきざしぬさくさくとハクサイの浅漬け食みおれば
ぬるき水こぼして水着脱ぎ捨てし身体に残る夏の分布図
鶴田が詠みこむ「身体」のイメージに重ねられるのが「樹木」と「水」である。これは解説の一人である大松達知も触れている部分であるが、体内に「水」を抱え「命」を抱える器としての身体という感覚がある。つまり生殖への意識が強いのだろう。そして自分の身体が自分ひとりだけで孤立しているものではなく、他の生命との連続体という意識も持っているのだろうと思われる。
コンパスの軸となりたる人を得て我は円しかかけなくなりぬ
問診は水の言葉で続けられ性交の日をほつと聞かれぬ
呼吸する我の身体を抱きとめて兵児帯ほどの束縛をする
ゆっくりとさよならをするアメンボにれんげに雲に広い背中に
噴水の向こうに透ける人の顔それもわたしを責める目を持つ
身の内に子を浮かべたる女らに囲まれ我は沙羅の木になる
どこまでも曲線である身体持ちぬるいビールのようにぼやける
いつまでも〈われ〉と〈わたし〉がつながらず蝕まれたる薔薇の葉ちぎる
性欲をほたるのようにともらせて死にゆく日々を人生という
ヒヤシンスの根の伸びゆくをみつめいる直線だけで書ける「正直」
押ボタン信号だとは気づかずにただ待っていたようだ あなたを
きみという窓から外をみていたか言問橋をひとりで渡る
だんだんとだいたんになるかんのうはくるしきまでにひと恋えという
そして成熟とともに世界に対する視点はより「澄んだ」ものになっていく。それは純粋になるというよりも、冷たい水を通して世界を見ることでよりクリアに外界とつながっていこうとする姿勢に思える。他者とつながりを求めて連続体であり続けるということは決して楽なことばかりではない。ときにつらいこともあるだろう。しかしそれでも外界とつながっていたい、世界との接続を求めたいと真摯に願う。そのまっすぐさに惹かれるところがある。
われだけのからだと思いたき夜も子は繰り返すドルフィンキック
われはまだ覚悟が足らぬドロップの缶に溜めたる向日葵の種
おちこちにちらばる春を集めいる我の手足に生える触角
「生まれる」というもくるしいことだろう最初の空はあおぞらがいい
産むということばの不遜わたくしは子を運び来し小舟にすぎず
雨後の木のようにあなたを待っている呼びかけてみる ひとりにかえる
足し算の生を紡ぎている吾子をわがちちははは何枚も撮る
抱くという円環を子と結ぶ日々 先に離すはあなたであろう
どんぐりの散らばる道にしゃがみ込む子は晩秋の読点となる
ああそうかわたしは泣きたかったのだ 布団ふわりと子にかけやりつ
子はボール 転がり先を知らぬままどこか遠くへ行ってしまうよ
歌集の終盤は出産・育児の歌が圧巻ともいえる量で並ぶ。女性歌人が非常によく取り上げるテーマであるが、わが子かわいさから一歩先に進むことは難しいのか、秀逸な育児詠を詠み続けられる者は決して多くはない。鶴田の育児詠が成功しているのは、「子供は私の所有物ではない」という認識からスタートしているからだろう。子供は一個の人格と認め真剣に対峙しようとしている。ある程度成長してからならともかく、出産前からすでにそういう認識を持っているというのは珍しい。もしかしたら、鶴田自身が親から一個の人格として認めてもらいたいと願い続けていた部分が心のどこかにあったのかもしれない。そして鶴田にとって子供を産むことは、自分自身が生まれなおすことなのだろう。
鶴田の歌に頻出するイメージが「円」である。他者とのつながりは直線ではなく、終着点のない円形なのだ。いつか遠くへ行ってしまう「ボール」である子も、いつか他者との丸いつながりを得るようになると予感している。母と子だけの小世界ではなく、他者とのつながりをどんどん求めていこうとする姿勢。それが普通の育児詠からさらに一歩進ませることができた要素なのだろう。