トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・61

  父母の笑みが混ざった微笑みを浮かべて俺ががんばっている

 短歌ヴァーサス2号(2003)所収の連作「マヨネーズ眼、これから泳ぎに」から。この歌は珍しく「父母」が登場する。二人だけの世界に閉じ籠もることを志向していた初期とははっきりと変化が生じている。自分の微笑みに父母の笑みが混じるというのは、単純に自分が父母の子であるという遺伝的な自覚ばかりから来るものではない。父母の人生を引き受けて自分も生きなくてはならないという悲壮感のある覚悟から来るものだ。それゆえに、「俺はがんばっている」ではなく「俺ががんばっている」なのだ。がんばっているのは「俺」だけであり、そこをなんとしてでも強調したいのである。
 おそらく「俺」は本当の笑顔を持ったことなんてないのである。父と母の笑い方を見よう見まねで取り入れて、それでやっと微笑みになるのだ。そんな模倣物のの微笑みだけを抱えて、がんばって世界と対峙しようとしている。そしてそのことを他者に理解してもらいたくてたまらないのである。ある意味子供じみた部分が出ているのであるが、多くの人は「自分のがんばりを誰かにわかってもらいたい」と願っているのではないだろうか。「微笑む方法」という難しくはないように思われていることですら、相当に難しくなっているのが現代なのである。

  ボーリングの玉の穴にはわるい血が溜まっていると従ぎょう員が

  日本れっ島改造論を脱稿す ミドリガメがキーポイントだ

 この時期の穂村の作品には、漢字とひらがなの混ぜ書き表記がしばしば取り入れられている。掲出歌と同じ連作にもこれらのような歌がある。この混ぜ書きは、幼さの演出と単純にはとれない部分がある。それはたとえば「父母」の存在に目を向けはじめるようになった心境とオーバーラップしているのだろう。父母あってこそ自分があったと考える大人になった自分と、子供っぽさを抱え続けた自分との間で揺れ動き続ける自己が表現されているのだろう。