江戸雪は1965年生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。1995年「塔」入会。同年「ぐらぐら」で第41回角川短歌賞最終候補。1997年に第一歌集「百合オイル」を刊行。2002年、第二歌集「椿夜」で第10回ながらみ現代短歌賞を受賞した。
江戸の歌の特徴は「液体感覚」と評される。世界に対して不定形の〈私〉という自己像があり、自分自身のかたちを保つために必死になっているような焦燥感がみてとれる。それはたとえばこんな歌にあらわれている。
なめらかにフロントガラス光らせてガソリン不足のまま走る 海
国道は西陽するどくどのひとも光る硝子におぼれていたよ
いつのまに信じられなくなったのかフロントガラスにとけるだけ 雪
知っているつもりでいたけど雨のなか君はひかりをみていたんだね
肺魚へと進化してゆく一瞬が湯にとじこもるわたしにはある
海風がふたたびふけばもうわたしはわたし以外の何にもならない
これらの歌にはいずれも水にかかわるモチーフが出てくる。そしてその裏側にはひったりと孤独感と自己不在感が貼りついている。「もうわたしはわたし以外の何にもならない」という感覚は、凛として生きようとする強い意志も感じるが、やはりそれ以上に弱さを抱えて生きなくてはならない心細さがにじみ出てしまう。
いらだちをなだめてばかりの二十代立ちくらみして空も揺れたり
私ならふらない 首をつながれて尻尾を煙のように振る犬
飛びあがり掴んだ枝はやわらかく あきらめ方がよくわからない
ゆるすのは誰なんだろう指笛にふりむきながら雑踏のなか
ゆるされてしまいたくない 石のうえ干した雨傘風にずれゆく
おたがいに破滅型だしこの距離がいいってこともあるとおもうの
ゆうぐれは手をつながずにいたほうが君といられるような気がする
江戸の「液体感覚」はそのまま身体的な不定感覚へとつながっている。「立ちくらみ」という身体感覚と、「あきらめ方がよくわからない」という自己疎外感は一体のものである。つねに自分が社会になじめないという感覚を背負っているからこその液体感覚である。4、5首目にあらわれる「ゆるす」という言葉も重要なキーワードである。「ゆるす」というのは聖なるものへと連なる感情であり、きわめて主観的な感情でもある。それすらも自分自身でコントロールできているように思えない。自己の肉体はおろか、精神すらも自ら支配しきれていない気がする。そういう不安感が歌の中に投射され、静かながら影の深い叙情を描きとることに成功している。
空を恋う人形もちて石に坐す狂女というべきか わが母を
こうしてまたこの人にもどる 栴檀の果実のいろはやわらかな黄に
わが身体えぐり生まれしおさなごは月光のごとしずかに坐る
こわいのよ われに似る子が突然に空の奥処を指さすことも
子を抱いて歩くこの道ぜったいに触れることないノブばかりある
しずかなる医師のことばを聞いているわれはひかりを産んだのだろうか
第二歌集「椿夜」以降では、出産という経験によってこの身体感覚に多少の変容がみられる。出産、育児、さらに第二子の流産という出来事もあったらしい。そしてこの身体感覚の変化は歌にさらなる奥行きを与えているように思う。子を産むという行為によってあらためて突きつけられる自身の肉体性。江戸のつくる子供の歌を、子供に対して異物感を覚えているような歌と受け取るのは正しいとはいえない。液体のように不定形なものと感じていた肉体に確固とした定形が与えられ、さらないその定形の一部が分裂して動き出しているような感覚が表現されているとみるべきだろう。それまで江戸は短歌によって、流れ出そうとする不安定な精神を必死に定型の瓶のなかに食い止めていたように思える。しかし出産の経験は、自身の肉体もまたひとつの容器であるという思いに至らせてくれたのかもしれない。肉体の定型と精神の定型をともに手に入れた江戸の短歌は、これからも進化してゆくことだろう。