トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその59・岡崎裕美子

 岡崎裕美子は1976年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。1999年に「未来」に入会し、岡井隆に師事。2002年に「八月の桃」で未来賞次席となり、2005年に第一歌集「発芽」を刊行した。岡崎の歌でまず目を引くのはやはり大胆な性愛の歌であろう。

  羽根なんか生えてないのに吾を撫で「広げてごらん」とやさしげに言う

  したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ

  二時間で脱がされるのに着てしまうワンピースかな電車が青い

  泣きそうなわたくしのためベッドではいつもあなたが海のまねする

  Yの字の我の宇宙を見せている 立ったままする快楽がある

 しかし性愛の歌といっても、愛のよろこびもなければ過激さもない。あるのはただひたすらに乾いていてけだるい、作業のような性である。「したあとの朝日はだるい」と歌うとき、真にだるいのは朝日ではなく「した」行為であることはなんとなく感受できる。そして気づくのが、性を通じて真に描こうとしているものは身体論だということである。

  いずれ産む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく

  その人を愛しているのか問われぬようごくごくごく水、水ばかり飲む

  目立たないところに鋏を入れながら共犯者として切る君の髪

  体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ

  こじあけてみたらからっぽだったわれ 飛び散らないから轢いちゃえよ電車

  年下も外国人も知らないでこのまま朽ちてゆくのか、からだ

  なんとなくみだらな暮らしをしておりぬわれは単なる容れ物として

 江戸雪のように身体の不定形感覚を描出しようとする歌人も多いが、岡崎の場合は自己の空虚感覚が基礎となっている。自分の身体がからっぽであるということ、そしてそのことに倦むがゆえの自己破壊願望。岡崎にとっての性愛の歌が、恋人とのコミュニケーションではなく一種の自傷行為のような匂いを発しているのは、そんな身体感覚があるからだろう。そしてそのような身体感覚は決して珍しいものではなく、実はかなりの普遍性を持っているように思える。そして「からっぽ」という感覚には容器としての自己の身体という枠組みへの意識が強いから持てるものであろう。身体という枠組みを意識することは、身体への強烈な自意識がなければ案外自然にはできないものである。

  あんなにも輝いていたホタルイカためらうことなく醤油にひたす

  振り向けばみんな叶ってきたような うす桃色に焼き上がる鮭

  やわらかい部分に指を入れやれば鋭く匂い立つ早熟(わせ)みかん

  肉食んで皆が呆けていたりけり誰もが誰かに似ている真昼

  初めてのものが嫌いな君だから手をつけられた私を食べる

 岡崎の歌う「食」はそのまま性のメタファーにも転化しうる。しかしこうした渇望のような「食」への意識もまた、身体に対して抱く感情の発露なのだろう。身体を維持するための食。ちょっと食べるのをやめてみれば、身体は簡単に崩壊させうるのである。

  豆腐屋が不安を売りに来たりけり殴られてまた好きだと思う

  平行線上に非常ベル見えていてされるがままになって傾く

  「渡辺さんですよね」と言われてその日から渡辺さんとして生きている

  海に行くように逃げ込む午後二時の私の中の非常階段

  目白駅から見えるだらだら坂はあの夏の決定打を打った坂

  あたし猫 猫だよ抱いて地下鉄で迷子になつても振り返つちやだめ

 自己の空虚感を表明することは、ときに露悪や挑発とも隣接することがある。岡崎はそこをぎりぎりのラインで調節しながら、見事なバランス感覚でもって抒情の本質を通している。出産という行為があるため身体性を強く意識する女性歌人は多い。しかし身体と自己のアイデンティティとの関係を徹底的に突き詰めて考えていることが、岡崎の歌にたまらないほどの切迫感を与えているのだろう。