トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

現代歌人ファイルその79・辰巳泰子

 辰巳泰子は1966年生まれ。京都府立大学女子短期大学部国語科卒業。10代の前半にはすでに作歌を始めていたという早熟の歌人で、1985年に「短歌人」入会。1987年、「家族の季」で第33回角川短歌賞佳作となり、1990年に第1歌集「紅い花」で第34回現代歌人協会賞を受賞。24歳での受賞は現在も最年少である(後注・その後2010年に野口あや子によって更新された)。
 「紅い花」には官能的な性愛の歌が多く詠まれている。しかし官能的とはいっても甘さはない。命を賭す覚悟をしたかのような激しさでもって身体性を描いた、熱さのある歌である。

  またひとり男のなかを去りてゆく黒き牡牛にわれは見とれる

  午後。唇(くち)といふうすき粘膜にてやはく他人の顔とつながる

  生殖を終へたるのちもこほろぎの声は象牙の耳をさまよふ

  おもひでは分かち難かりそのことを告ぐる手だての水蜜桃(すいみつ)一顆

  謝られ満たされてしまふまた続けるしかなくなつてしまふ

  リクルートスーツを脱げばあらはるる男尊女卑に怒るふともも

  甘あまとぬめる陽ざしに洗はれて何で桜を見にゆかむとす
  歯磨きのチューブするどく絞りきるあとは果ててもいい雨の朝

  むざんやな畳のうへの陰毛にからめ取られし羽虫一匹

  汝の指もてこの朝をほぐれゆくゆふべ熱病のごとき怒りも

 性愛は決して歓びになりえない。ここにあるのは思いやエネルギーが身体に収まりきらずあふれ出てしまいそうな切迫感である。相聞歌でありながら、その背後には孤独を抱えながら世界と闘うひとりの女性の姿がある。この強さ、たくましさは一種の無頼といっていいものだろう。辰巳は女流の無頼派として独自の地位を築き上げているのである。

  牛乳をあたためて飲むこの朝(あした)夢のなかないて父を殺めて

  明るいところへ出れば傷ばかり安売りのグラスと父といふ男と

  夢をみることの得意な男ゆゑうからは父をけふ眠らしむ

  つつまれて乳房はあるをひび割れし陶器のごともいたみさ奔る

  いま誰のためにもあらぬ乳房なるそば屋でそばを噛むゆふぐれの
  ここからを子供に還りゆくために探さむ草のなかなる乳房

  乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる

 「家族の季」は自らの家族について描かれた連作である。愛憎いりまじる「父」の描き方がきわめて印象的だ。辰巳自身が実際に複雑な家庭に生まれ育ったのかどうかはわからない。しかし文字通り誰にも頼らないという意味での「無頼」な性格を作り上げた環境だと言われれば非常に納得のいく描き方ではある。「乳房」の歌が多いのも特徴だ。「乳房」というモチーフは、性的なイメージと母性のイメージが二重写しになっている。考えてみれば不可解なモチーフだ。女性としての身体性を強烈に意識する突端として、辰巳は乳房というモチーフを繰り返し描くのである。

  恐山にはおかあさんとやいちくん ただ一つづつの石を積みをり

  やいちくんと巡るぢごくのたのしさはこの世のたのしさに似てゐます

  憂さもなくただおのづからただよへばたましひはそこをはみだしてしまふ
  お馬さんあそこにゐるよやいちくん 雨粒が充ちて聴こえないか 耳

  いつしよに行かうと誘つたときにはいやだつた 一人で走る濁流の橋

  ゆふぐれて三千世界ゆくみづは折られて折れしままなる天花(てんげ)
  海の名のたくさんの痣 お月さんの痣に溺れてゆくやうな眠り

  天空を撓め色づくななかまど なんべん抱いても死ねないのです

  どこまでも嘔吐してふるさくらばな うそでないからこそ罪ぶかい

 「恐山からの手紙」(2000年)、「セイレーン」(2005年)といった比較的最近の歌集から引いた。「やいちくん」は息子の名前だという。母となった辰巳が見る世界は相変わらずのおどろおどろしさをもっているが、「ひとり立つ女性」としての強さから母としての強さへと変わってきたように思う。ぎりぎりの切迫感はやや和らぎ、「ぢごく」たる現世をたのしむ余裕が出てきたようにも感じる。恐山といえば青森であり、青森といえば寺山修司である。自己劇化とどろどろした土俗性は寺山から摂取したものだろうか。やわらかいけれど、ずしりとお腹に来るような重さで迫ってくる歌群である。
 辰巳はぐつぐつと煮えたぎるような女の怨念をうたう歌人、とは単純に括れないところがある。それはたとえば母性、身体性、家族の物語といった複雑な要素が絡み合っていることと、多分に演劇的な要素も持っていることがあるのだろう。人生のイベントがそのままつづられている境涯詠よりもやや芝居がかった辰巳の詠み方のほうが、はるかに「ひとりの女性の人生に触れている」という感覚がするのである。