兵庫ユカは1976年生まれ。2000年に作歌をはじめ、2003年に「七月の心臓」で第2回歌葉新人賞次席。第1歌集「七月の心臓」は2006年に刊行された。兵庫の歌は都市の中の孤独感に満ち溢れており、穂村弘が「現代の若い世代の心情を象徴した歌」として引き合いに出すことも多い。たとえばこんな歌だ。
遠くまで聞こえる迷子アナウンス ひとの名前が痛いゆうぐれ
どの犬も目を合わせないこれまでもすきなだけではだめだったから
一羽ずつ立つ白い鳥真っ白い鳥せかいいちさみしい点呼
砂時計打ち砕いたら砂まみれわたしがいてもいい場所はない
正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり
ベーコンが次々跳んでわたしではないひとになることができない
求めても今求めてもでもいつかわたしのことを外野って言う
あのひとににていないひとたちの群れ かわいそう まだ往路の五月
最初からすべてを諦めているような自己不全感と、自分の居場所がどこにもないように感じる自己疎外感。「すきなだけではだめだった」「わたしではないひとになることができない」と、やわらかな表現でぐさりと突き刺してくる鋭い言葉のナイフ。現代を生きるということはこのような感覚との戦いであると言ってもいいくらいである。「正しいね正しいね」と空々しいことを言い合うふたりの様子からみえてくるのは、既存の価値観が崩壊して「正しさ」すらも相対化された世界の空虚さである。
鳩尾に電話をのせて待っている水なのかふねなのかおまえは
獰猛なとこもかわいいこの家のコーヒーミルはどことなく栗鼠
自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る
通じないたとえ話をあきらめてお麩びっしりの味噌汁を出す
兵庫の歌の特徴は、こういったぶっ飛んだ修辞がしばしば出てくることである。「自転車を盗まれたことないひとの語彙」と「CDがくるくる回る」には論理的な接続性は一切ない。しかし論理性を超えたところで不思議な説得力がある。確かにこの組み合わせでなくてはいけないと思わせる力がある。これは兵庫が、自分の感じている社会の不条理や空虚をしっかりと己の中で整理しているからだと思う。そして整理した上で「自転車を盗まれたことないひとの語彙」と「CDがくるくる回る」は同じカテゴリに含まれるのである。そしてその整理法は、おそらく実際に社会の矛盾に突き当たっている人でないと理解しえないかもしれない。そのある種の独善さがまさに相対化された現代社会のリアルであり、兵庫ユカという歌人の武器でもある。
そして社会の不条理をしっかりと見据え整理しようとする短歌の向こうに見えてくるのは、とても堅固な自我を持った強い女性である。
でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める
きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本
すきという嘘はつかない裸足でも裸でもこの孤塁を守る
あおぞらに溶けないように薄い羽動かしている最後の桜
七月の心臓としてアボカドの種がちいさなカップで光る
「痛いかどうかはじぶんで決める」。兵庫ユカの作歌姿勢を非常によくあらわす一文であり、稀代の名マニフェストであろう。たとえ目指していたものにたどり着けなくても、どこにも居場所がなかったとしても、感覚を持った人間としてたった一人〈私〉がここにいる。それは動かしようのない事実であり、〈私〉を制御できるのは〈私〉だけだ。そういう高潔で凛とした意志が兵庫の歌の根本を形作っている。その覚悟は決して痛ましいものではない。むしろ眩しいくらいである。「最後の桜」を羽に見立てる、アボカドの種を心臓に見立てるといった独特の身体感覚も、同様に「確固たる〈私〉」の延長線上にある修辞といえる。世界から自分が疎外されようと、決して〈私〉をやめない、見捨てない。そういった態度には、現代を生き抜くためのひとつの答えがあるように思える。