トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・27

  ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。 ハロー カップヌードルの海老たち。
 第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」から。この歌集を代表する一首である。不自然なくらいひたすら優しい気分になって、とにかく何にでも語りかけるという状態が、「まみ」の不安定の精神を逆に照射している。「カップヌードルの海老たち」は「夜」や「静かな霜柱」と比べてはるかに人工的で、美しさにも欠ける代物である。そしてそれゆえに「見るものすべてに語りかけたい」という気持ちの表現になっている。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい」という歌も、できる限り誰にも関心を持たれないようなものに自分の気持ちをぶちまけたいという意志がはたらいている。それと近い心情が「カップヌードルの海老たち」には込められている。

  さらば象さらば抹香鯨たち酔いて歌えど日は高きかも  佐佐木幸綱
 掲出歌から連想される歌としてしばしば引き合いに出されるのがこの歌である。「ハロー」と「さらば」でベクトルは逆であるが、構文自体は似通っている。幸綱の歌は「象」「抹香鯨」というきわめて大きいモチーフを取り出している。おそらくは酔っぱらうことで自分が巨大な自然と一体化してゆき、象や抹香鯨すらもちっぽけなものになっていく心情が表現されているのだろう。
 掲出歌の場合、語りかける対象はどんどん縮小している。「まみ」の視界が狭まっており、小さいものしか見えなくなっていっていることがわかる。対象が小さく、具体的になっていくことは、徐々に精神が明晰になっていることでもある。明晰になるほどに「まみ」は寂しさに耐えられなくなってくる。より自分をわかってくれそうな小さいもの、弱いものへと語りかけるようになってくる。あらゆるものに「ハロー」と呼びかけ続ける「まみ」であるが、その相手は基本的に「陰」の性質を持つものばかりだし、呼びかけてもまず返事をしてもらえないものばかりだ。
 それでも「まみ」は「ハロー」を言い続ける。次第に明晰になっていく自分への恐怖を感じながらも、わかってくれる誰かを求めて呼びかけ続ける。それは、都市社会においてコミュニケーションを希求する孤独の表象なのである。