トナカイ語研究日誌

歌人山田航のブログです。公式サイトはこちら。https://yamadawataru.jimdo.com/

穂村弘百首鑑賞・34

  おばあちゃんのバイバイは変よ、可愛いの、「おいでおいで」のようなバイバイ

 第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」から。この歌が含まれる一連には「まみ」の家族が出てくる。「まみ」の不思議フィルターを通じているものの、いたって普通の家族のなかに育ったようである。おばあちゃんを描いたこの歌にしても、一読したところああこういうおばあちゃんいるよなあという安心感がある。これがたとえば子供の歌として提出されたらそのまま流されてしまいそうなところである。しかしこれはそう単純な歌ではない。裏をとってみると、「可愛い=変である」という発想になっていることに気付く。バイバイはつねに悲しいものでなくてはならない、可愛いものであってはならないという価値観が「まみ」の中にはあるのだ。それはある意味「まみ」の孤独を逆照射している。ここでは綴られてはいない悲しいバイバイの連続があったことが、行間ににじみ出ているのである。

  暗闇を歩いていってブレイカーあげるのはお父さんの仕事よ

  ブルマーに縫いつける星。下半身を冷やしちゃだめって、お母さんが
 「まみ」の両親が描かれているこの2首からは、「まみ」がしっかりと愛を受け、庇護されて育てられてきたことが伝わってくる。しかし「暗闇」「夜」のイメージに覆われていることに気づく。「まみ」が家族と過ごしてきた時間はいつだって夜だったのかもしれない。夜の寒さの中で震えながら抱き合うような家族像が、「まみ」の中に原型としてあるのだろう。
 バイバイが「おいでおいで」に見えることは、「まみ」にとっては寂しさなのだ。おばあちゃんの動きは、「まみ」の中にあるコミュニケーションの規則から外れたところにある。別れ際なのに可愛いバイバイをしている。加齢ゆえの肉体的制約ということくらいはわかっているけれど、自分とは違うコミュニケーション規則で表現をしている人間が家族という非常に近しい存在としてそこにいる。そういう寂しさが、掲出歌には込められているのだと思う。