朋千絵(とも・ちえ)は1965年生まれ。清泉女子大学文学部卒業。高校在学中に「うた」に入会し、1993年より「日月」同人。2000年に第1歌集「リリアン」、2003年に第2歌集「ヴォイス」を刊行している。
「リリヤン」という歌集の特徴は、巻末に「リリヤン」と題された散文が収録されていることである。後書きというよりも、掌編小説のような一品である。子供の頃好きだったおもちゃ屋のリリヤンの思い出。「ただきれいな組み紐ができあがっていくだけで、色を変える以外には、何の工夫も新鮮さもない。思い出す限りでは、できあがった紐を何かに使った覚えさえない。」にも関わらずリリヤンが好きだったという。このリリヤンのくだりは、そのまま歌集を編む姿勢に通じる。ただきれいなものがきれいなものとしてだけそこに存在している。意味はいらない。そういった志向が見てとれる歌集なのである。
一斉に銀の波紋をざわと立てわが胸よぎる小さき魚群
森ふかく立つ霧のごとやはらかき君の空なら泣かされていい
結び目をほどかれてゆく感覚に浸されてゐるゆふぐれの助手席
足元を風にひかれてゆく砂がささめく、あなたが滲む、泣きさう
ふりむけば銀波寄るたびおぼろげに消えゆく七歩ほどの足跡
そんなふうに頷かれたら明日になる前に醒めてしまふよ to be continued
基本的には相聞歌であるが、具体的なところは巧みに隠されており、ただぼやけた世界が広がる。哀しみと欠落感に満ちた世界だ。しかし朋はまたそれすらもありのまま描こうとする。ぼやけた世界の中から哀しみの核だけを抽出した瞬間。その美しさを何よりも愛する。具体的な社会性などはノイズでしかない。
その先に理由などないTシャツを着替へるやうに出口に向かふ
無防備にわたくしでゐる氷など溶けてしまつたグラスひとつと
この先はモウイヘナイヨとほくなる君とちひさくなりゆく私
限りなく幸福な忘却もあるはずと音叉のやうな暗闇を抱く
十六分の一の青空 新品のハンカチ四角くたたまれてゐる
決してこの物語から出ることはないヘンゼルとグレーテルの小石
美術館、白き廊下を囚はれの花嫁のごとかたくなにゆく
各章の冒頭に短い散文が載っている。「もし、人が五感と五感だけで感じあえるとしたら、誰かを好きになることなど、ちっとも怖くなくなるだろう。」「〈パチン!〉バッドチューニング。急がなければ、約束の時間に遅れてしまう。」「女は、臍帯という密かな絆を隠し持つ。」それぞれの章から一部抜粋してみた。朋は、肉体と言葉を持っているがゆえに苦しみながら、しかしそれが誰かを愛するために必要な苦しみなのだと考えている。「閉じ込められる」イメージが歌の中に頻出するが、決してそれは悲痛な叫びではない。
離れゆくきみの心と向き合ひてわたしはころがる雨粒のやう
棗の蓋しづかに閉ぢるやうにしてあの日わたしの夏は終はりぬ
歪なる生命は並ぶアンモナイトの指輪¥14800
「丸まつていいよ」さう言はれたき夜なれば膝をかかへて耳を閉ざして
あたたかくまろき体(てい)なすもの達よわが静謐の外へと還れ
夏草と校庭のにほひ恋しくて洗ひざらしのタオルにくるまる
「体を丸める」イメージが多いのは、自分の生をより凝縮させていきたいという意志が働いているからだろうか。「膝をかかえる」という行為が寂しさの象徴としてだけではなく、胎児へと還っていくようなイメージにもつながっていく。「リリヤン」という歌集からは作者のパーソナリティがほとんど読み取れない。それが「余計な色」でしかないからだろう。しかし後半には息子が登場したり、出産を連想させたりするような歌がある。ぼやけた世界の中で断片的に鮮やかな風景が現れては消えていく瞬間、どきっとさせられる。この緩急の使い方の巧みさが印象的な歌人である。