尾崎まゆみ(おざき・まゆみ)は1955年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。1987年より「玲瓏」に参加し塚本邦雄に師事。1991年、「微熱海域」で第34回短歌研究新人賞受賞。神戸市に在住し、「玲瓏」編集委員を務めている。もともと詩を書いて「ラ・メール」に投稿していたそうだが、同誌にあった辺見じゅんの短歌欄にも投稿するようになったのがきっかけとなり、短歌の世界に入っていったという。
列島は東日本大震災という未曽有の大災害に見舞われ、落ち着くまでに時間のかかりそうな状況にあるが、この尾崎まゆみは第2歌集『酸つぱい月』にて阪神大震災を描いた歌人である。
破壊もまた天使であるとグレゴリオ聖歌が冬の神戸を駆ける
たとへば空までのディスタンス百合鴎差しだす腕にいだかれてゐる
味覚聴覚口を開いて受け入れる地球の傷のやうな未来を
玩具箱ひつくりかへす感情の洪水の跡 うるむ神戸へ
わたくしの思ひ出に創られた街角を曲がつて地下鉄に乗る
昼にいだかれ眠る元町歩道には割れし煉瓦の跡形もなく
光こそ永遠(とは)に崩れて星屑に奪はれてゐるたましひのこと
ルミナリエ縫ひ目ほころびよろこびの祈りは声の中にはかない
尾崎が描いてみせたのは震災そのものではなく、破壊と復興の過程で別の街のようになってゆく神戸の姿である。たとえ震災前そのままの風景が戻ってきたとしても、記憶の中の神戸は戻らない。塚本邦雄門下の歌人は決して詩の中にジャーナリズムを落し込んだりはしない。阪神大震災を描いた連作『KOBE』のテーマは鎮魂であるが、それは死者への鎮魂ばかりではなく、神戸という街への鎮魂でもある。『KOBE』の連作に限らず『酸つぱい月』の収録歌はなべて鎮魂の静謐さを備えているが、街を形作っているのは人間ばかりではないという思いが伝わってくる。
コカコーラ壜のへこみに匂ひたつのすたるじあ飲み干してごらん
「さすらひのカーボーイ」「真夜中のカーボーイ」ロマンてふものほぼ死へ向かふ
手をかざし見るプールサイドにわたくしの蜃気楼立つ微熱海域
少女には美徳食べさせ着せかけて桐の花なる母のほほゑみ
FMとコラム雑誌と広告と今日オフェリアの名にみたび逅ふ
ウォークマン音は散り散り粉粉のまま長き手と足持て余す
ジャムを煮る場面幾つもかさなれどこちら向かざる宮下順子
時の流れの一滴がほらアリスちやんあわてて夜の底に満開
第1歌集『微熱海域』からの歌である。震災以前の歌というわけだが、これらもまた「時代」へのレクイエムといった雰囲気がある。通俗的・サブカルチャー的な意匠を散りばめ、常にそれらの死を予感しながら浸ってみせている。スタイリッシュな猥雑さ。それはもしかすると、尾崎が哀悼した「KOBE」的なものの一角だったのではないか。
雲雀料理の後にはどうぞ空の青映しだしたる水を一杯
調整池の水の真上に青葉あり逆立の水底に青空
みづうみでいつぱいの空致死量を包む両てのひらの熱さに
沈黙がすぎるよろこび青空ときのふの雨が楡の木に降る
さらつと飲みやすい祈りとしあはせと曇る大空縛りつけても
見ることがあるいはすべて見つめあふ黒目がちなる空とみづうみ
水がおとなしすぎて真昼間陽炎の熱が中心から燃えてゐる
雪解け水のきらら崩したひさかたの光おいしい六甲の水
空に水を見る、もしくは光や青といったイメージを媒介に空と水とを結びつけるという歌が多いのが特徴である。水はつかまえられるようでつかまえられない。触ったそばから崩れてゆく。そのイメージが空にも転化される。尾崎は空に自由を見ない。それは水のように不定形で、触れれば壊れてしまうものなのだ。空と海とに囲まれた街で、尾崎はいつかは消えてゆくあらゆるものに鎮魂を捧げる。それは、決してそこから逃げられない自分の存在を見つめているからでもあるのだ。
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