白瀧まゆみ(しらたき・まゆみ)は1957年生まれ。愛知県立大学外国語学部中退。1988年に「未来」入会し、岡井隆に師事。現在は光栄堯夫主宰の「桜狩」同人。1990年、「Bird lives − 鳥は生きている」で第1回歌壇賞を受賞。1991年に第1歌集「自然体流行」を刊行している。
立てひざをついて知らない街の名を数えるキリマンジャロ挽きながら
後ろから抱きしめるとき数一〇〇〇(いっせん)の君のまわりの鳥が飛び立つ
ばくぜんと死を考える朝っぱら ナポリタン・スパたのむ昼過ぎ
シースルー・エレベーターが降下する 二十五階にぼくを忘れて
ヘイ・バード僕ら翔べない鳥だから彼(か)は誰(た)れどきの夢を見るのさ
君の住む町のあたりはたそがれを口にふくんで祭りのなかだ
「自然体流行」というタイトルの「流行」は trend の意ではなく flow の意だろう。口語をうまく定型に乗せており作風としてはライト・ヴァースの潮流の一人にも数えうるが、同時代のライト・ヴァース歌人の多くと同様に前衛短歌を消化していると思われる。「ヘイ・バード」の歌はジャズミュージシャンのチャーリー・パーカー(通称バード)に題をとったものらしいが、「ヘイ龍(ドラゴン)カム・ヒアといふ声がするまつ暗だぜつていふ声が添ふ」(岡井隆)の影響を受けた歌でもあるのだろう。
ゆるやかな山の向こうで球体がわれてしずかに霧が溶けだす
やさしさは氷菓をわけあうことに似てあやうく喉をいやして過ぎぬ
日を葬(はふ)りざぶんと蒼きゆうぐれにこの世の橋が浮かびあがりぬ
限りなく狭いところをくぐり抜け外に出たがる私がいる
見てみろよ君の知らない九月だとトミオは闇からネガを引きぬく
マリィという黒猫抱き理解など存在しない世界もあるのだ
岡井隆と異なる部分は、抽象的な概念を詠み込む傾向がある点だ。「球体」や「この世の橋」「狭いところ」は何かの比喩ではなく、作者の頭の中に浮かんでいるイメージそのものという印象を受ける。後に所属することになる「桜狩」は加藤克巳の流れを汲んでいるが、もともと加藤克巳的なシュールレアリスムの世界への親和性があったのだろう。
あたりまえのように帰れば夕焼けだ 何処にあるのかわからない玄関
まなうらの鳩がうたうよ鳥の歌 僕らは括弧でくくれないから
銀河系で何番目なのか知らないが新月はきっと寒いだろうね
まだ知らないことがあるなら生きようよオオミズアオの羽化する前に
水のなかにゆらぐ太陽このように生まれるときもふるえたろうか
霧の朝はじめて地上を見るごとく水の子どもが空へと走る
もういいよ わたしという名の匂い草銀河の支店でゆっくりお立ち
鳥や天体のイメージが目立つことは、抽象的イメージとは違いメタファー性を感じさせる。広い空を寓意していながら、そこへと自由にはばたくことができない閉塞感があるようにも思う。「飛ぶこと」と「生まれること」が白瀧のなかでは非常に近い位相にあるのだろう。新しく生まれ直すために空を見つめる。それは厳しい道のりかもしれない。しかし決して「生まれる」希望を見失いたくはない。そんな意志を感じる。
身体の液体感覚を詠む歌人は多いが、白瀧は比較的珍しい「気体感覚」の持ち主なのだろう。身体と気体が直接交じり合い流れだしてゆくようなイメージがあり、それが空への一体感へと向かっていく。その結果としてまるで山頂の空気のような独特の冷気が充ちている。それは単純な閉塞感ばかりではなく、ある種の心地よさも生んでいるのである。