トナカイ語研究日誌

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四元康祐「世界中年会議」

 四元康祐は1959年大阪府生まれの詩人で、「世界中年会議」は2002年に発行された彼の第二詩集である。製薬会社の駐在員として欧米暮らしが長い人らしい。それまで現代詩において描かれることがほとんどなかった経済、ビジネスを扱った詩を多数発表しているのが特徴である。日本経済新聞の経済教室欄に、会計知識や経済用語を駆使した、一見したところ経済論文に見えるような詩を発表していたこともある。
 この「世界中年会議」に収められている詩は、大部で三つの種類に分かれている。まずアメリカの風俗を題材にしたアメリカシリーズ。次に家族風景を描いた子育てシリーズ。最後に中年シリーズ。しかし、子育ての詩にしても素直に子育ての心情を描くことはなく、SF的な発想が目につく。また中年シリーズのなかには表題作である「世界中年会議」が含まれる。世界各国の中年代表が集まって中年の人権を議論する架空の会議の様子を刻々と記した散文詩は、まるで不条理小説のようである。

南から


亭主いなくなった
亭主ロス・エスタードス・ウニードス行った
河こえて行ったか
トンネルぬけて行ったか
ノォ、ノォ、セニョール
亭主テレビジョンなか入ってった
お金ぜんぶ抱えて入ってった
そのときテレビ、クイズやってた
ロス・エスタードス・エニードスのクイズショー
亭主の組み立てた冷蔵庫
マリアさまより眩しく光ってた
その横でドルの輪まわってた
カーニバルの当てものみたいに
ぐうるぐるぐうるぐる回ってた
シィ、シィ、セニョール
亭主からだ透きとおって
骸骨なってこっち振りかえった
笑ってたか泣いてたかわたし知らない
豆煮えたぞ
セニョール食べるか
亭主いなくなった

 「アメリカシリーズ」のうちの一篇である。1990年前後に書かれた作品だという。ところどころに助詞が省略されているところがあるが、これがテンポのいいリズムを生み出している。短歌でも韻律のために助詞を省略することがあるので、それを思い出す。ただこの詩における助詞の省略は、リズムキープもさることながらあまり頭のよくなさそうなアメリカの一般庶民の人間像を浮かびあがらせている。おそらくはアメリカ南部に住んでいて、スペイン語の語彙が混じるのでヒスパニック系なのだ。クイズショーという一般庶民が一攫千金をねらえる華やかな舞台の裏側には、日本人には想像もつかないほど巨大な貧困と無教養が潜んでいる。

若さと健康


正確に測り抜かれた長方形の世界の端っこに
ナイフで切り裂かれたような眼を真昼の太陽にほそめ
一条の白い水平線の向こうで陽炎に揺らぐ人影の背後から
ゆっくりとやがて急速に振り下ろされるラケットの切っ先の瞬きを
瞬かずに見つめる君の若いうなじで風が息をひそめる


小柄な君の身体がどんな比喩も拒否した君だけの仕方で
空間を支配するその一瞬を観客席は眼の貪欲さを露わに見守り
続く歓声と溜め息のなかでアナウンサーは「彼はまだ十六歳です。
今この瞬間にも彼の肉体は成長しているのです!」と人々に福音を報じ
だが逆光のなかで君の身体はほの暗い影のようだ


若さと健康の前ではすべてが許されるとでも云うふうに
世界じゅうが君に微笑みかけるとき君だけが頑なに君を拒んでいる
王子のガウンのように輝く透明な汗を纏ってネットに歩み寄り
勝利の握手を交わしたあとでひとりぼっちの君は振り仰ぐ
とこしえの空の青さその下でうち振られる母親の手の星条旗

 この詩はマイケル・チャンという中国系アメリカ人のテニス選手を題材としている。1989年の全仏オープンで史上最年少の優勝をなしとげた天才プレーヤーだった。若きビジネスマンとして活躍していた四元は、同じアジアの血を引くものとして彼に何らかのシンパシーを抱いていたようだ。民族という枷をはめられて抜け出せぬまま、かつては中国人であった母親に星条旗を仰ぎ振られる姿に、どうしようもない悲しみをみたのだろう。それは、きらめくひとりの才能が民族と国家に呑み込まれていく瞬間であった。
 四元は穂村弘加藤治郎と同世代である。自由詩と短歌、表現方法は違うものの、バブル期に青春を過ごしアメリカ風俗を原風景にもっているという点で共通点がある。ただ四元は海外経験のせいか民族性という視点を強く意識しているようだ。日本人にとってアメリカとは何かと考えさせられる一冊だった。