トナカイ語研究日誌

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室生犀星詩集

誰かをさがすために  室生犀星


けふもあなたは
何をさがしにとぼとぼ歩いてゐるのです、
まだ逢つたこともない人なんですが
その人にもしかしたら
けふ逢へるかと尋ねて歩いてゐるのです、
逢つたこともない人を
どうしてあなたは尋ね出せるのです、
顔だつて見たことのない他人でせう、
それがどうして見つかるとお思ひなんです。
いや まだ逢つたことがないから
その人を是非尋ね出したいのです、
逢つたことのある人には
わたくしは逢ひたくないのです、
あなたは変つた方ですね、
はじめて逢ふために人を捜してゐるのが
そんなに変に見えるのでせうか、
人間はみなそんな捜し方をしてゐるのではないか、
そして人間はきつと誰かを一人づつ、
捜し当ててゐるのではないか。

 「室生犀星詩集」を読んで、久しぶりにこの「誰かをさがすために」という詩に再会した。室生犀星は1889年生まれの詩人で、「誰かをさがすために」は最晩年の詩集「昨日いらつしつて下さい」(1959年)に収められている。最晩年の犀星作品はライトヴァースにも通ずるやわらかで洒脱な口語詩を追求している。
 私がこの詩に出会ったのは子供のときで、幼心にものすごく感動したことを覚えている。私の詩の原体験といえる作品かもしれない。この詩は読めばわかるように二人の人間の会話体となっている。しかしカッコに括られていないうえに二人の人間のセリフ分けが改行に対応していない。発話者が二人のうちのどちらかは意味の句切れで判断するしかないわけで、日本語ネイティブでないと読み解くのは難しいのかもしれない。
こういう構成はポリフォニー(多声)というが、二つの声による対話をはっきりと区切らずに続けているのは、これは一人の人間の中の葛藤だからなのだと思う。「私」と「内なる他者」との対話。たった一人の「誰か」を捜し求めるということは、自分の中にあるもう一人の〈私〉を見つめ続ける作業なのかもしれない。