前田康子(まえだ・やすこ)は1966年生まれ。20歳の時に「京大短歌」「塔」に入会。「ねむそうな木」「キンノエノコロ」「色水」「黄あやめの頃」と4冊の歌集がある。
歌集に個人情報をあまり明かさないタイプらしく、作者像はどこかあいまいな雰囲気がある。「ねむそうな木」は口語混じりの文語を用いた柔らかな文体で、日常を丁寧に描いた作風が目立つ。
見過ごした映画のような風に会う壁にもたれて笑っていたら
どれにでも座ってごらん駅裏の自転車の群れ風に揺れ出す
りんごどれも軸傾けて静まれば指先までが動悸していつ
少年の腕を広げて眠そうな木 その韻律に抱かれたくある
横顔のきりんの睫毛長くして空の中にて痛くまたたく
動物園出でゆくときにふりむけばきりんの一人遊びがまだ見ゆ
その視点は基本的に現実と地続きであり、大きな詩的飛躍などがあるわけではない。しかしこれはこれで現実のなかに一つのメルヘンを作りだそうとする意志があるように感じられる。「一人遊び」をしている「きりん」はきっと自己像が投影されているのだろう。
白桃に深き傷ありその面を隠して父の食卓に置く
冬の陽の遠くから射す坂道 家族と汝の間(あい)を行き来す
ジーンズ雨に青く染めて兄は殺人犯少年の味方している
不眠症の母が襖のむこうにて寝返り打つ音白蛾の羽音
繊細な象は眠りにつく前に黒砂糖含むと母は言いたり
福を呼ぶ置物ばかり部屋にあり一人暮しの祖父の部屋には
じゃん拳を母と最後にせし日かな赤のまんまに風は渡りて
家族を詠んだ歌が多いのも特徴であるが、そばにいるから自然に詠んでしまったという雰囲気はあまりない。むしろ自己の内面と向き合い、痛みを伴いつつもあえて詠んでいるという印象を受けてしまう。その理由は、「父」「兄」「祖父」といった男の家族と、「母」との接し方の違いにあるように思う。白桃の傷はきっと自分自身の傷のメタファーだろう。男の家族に対する理解の気持ちをどこかで遮断していて、見られたくない部分を保持し続けている。その一方で「母」に対してはその弱さに同情的な部分を抱えている。
具体的に「父」や「兄」と何かがあったわけではないのだと思う。ただ、家族とは血縁のもとに男女が寄り集まる不思議なコミュニティだと捉えているのだろう。
心中の前に爪切ることなどを君に教えし小春日の部屋
クッキーをぼろぼろ零したセーターで同性のごと我を慰む
青ざめたジーパン干せり父となることに夕べは笑いておりぬ
やじろべえのように荷物を釣り下げて妊婦の我の影が現る
分娩の話をすれば箸宙に浮かせて夫は少し怯える
同じようにジーパン穿いて歩いてた夫を置いてはるかな時間を越え来
子と我は「妻子」とひとつに括られて君の背中を見送るばかり
産道とうこの世で一番やわらかく短き道を今も誰が行く
妊娠と出産の歌も「ねむそうな木」には含まれている。ユニークなのは「母となる私」だけではなく「父となる夫」の姿をリアリスティックに描き出そうとしていることだ。これはなかなか珍しい視点である。親となることは人間の種類そのものを変えてしまうことなのだろうか。上の「ジーンズの兄」も含め、「ジーパン」が親となる以前の人間の象徴として描かれているように思える。
子を持つこと、家族を持つことに対しての男女間の意識の違いを冷静に見つめて歌にしようとしているのが大きな特徴だといえそうだ。そして自分が育ってきた「家族」とこれから自分が育ててゆく「家族」との巧みな対比が、人生の喜びと苦みとしてほんのわずかな揺らぎとなり、心に訴えかけてくるものがあるのだ。
- 作者: 前田康子
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