トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその107・辺見じゅん

 辺見じゅんは1939年生まれ。早稲田大学文学部卒業。「弦」主宰。1988年に歌集「闇の祝祭」で第12回現代短歌女流賞を受けている。しかし一般的に有名な肩書きは歌人ではないだろう。「男たちの大和」などの著作があるノンフィクション作家として、そして角川書店創業者・角川源義の娘であり角川春樹・歴彦兄弟の姉としての知名度の方がはるかに高いだろう。
 辺見の短歌を読むにあたっても外せないのが家族の物語である。その血筋そのものが壮大なドラマと化しているという点で他に得難い個性がある。

  夏帽のひとつを追ひて見失ふ壮年の父の影は痩せつつ
  枕木に月射す越の国に来て運河のごとき母子の眠り
  母われを捜すかのやうに手をのべてまた眠りゆく稚き香り
  ひとひらの雲に茜をみる夕べまぼろしの河渉る父の背
  蒼穹に一脚の椅子透きとほり吹かるるまに父坐りをり
  ふたたびを死者に逢ふ島みみらくに雲ひとひらの父のたてがみ
  炎天の野の駅はるかパナマ帽 若き父なれ清きまぼろし
  この夕べふるき頁に書き込みの朱は父なりき創(きづ)のごとしも
 父の歌の多さは異常と言ってもいいくらいである。つねに幻の彼方にいるような父の姿と、何かに引き離されてゆくような母の姿。その背景にあるのは故郷富山の景色である。娘としてあまりに強烈すぎる父の影に振り回されてきたような人生だったのかもしれない。しかし実体をもたない影まぼろしとしていつも立ち現れる父とは、必ずしも角川源義本人と限らず戦争によって奪われていった「父なるもの」としての象徴性があるようにも思う。

  少年の肝喰ふ村は春の日に息づきて人ら睦まじきかな
  地球儀の海に遊べる幼児の夕べ濡れをり帆のごとき耳
  おとうとは母を知らねば六月の海に出でゆく鳥の翼よ
  抽出しに母とかなかな眠らせて今日も迷子のおとうとと鳥や
  いもうとの夭折の耳うすみどり木の葉の息にまたたきて見ゆ
  甲虫を死なせてゐたるおとうとの茜したたる夕暮れの耳
  通り雨たちまちすぎてあさがほの紺のほとりに髪洗ひをり
 兄弟の歌も多い。そして「おとうとと鳥」なんて表現が出てくることからもわかるように、寺山修司の「田園に死す」の影響が非常に濃い。寺山の恐山に負けないくらいに辺見にとっての越中立山は土俗的な奇怪さに満ちた土地であった。己の生まれた土地を過剰にまで呪いながらもその呪縛を断ち切れないところに戦中世代の業が見える。辺見が寺山と大きく異なる点はひとつ。「おとうと」も、「夭折のいもうと」も実在することである。

  ねむりうすき父の呑みつぐ錠剤のかがやくほとりわれも眠らな
  敗北はやすらかにしてしづかなり白暁のかなた光る羊歯群
  錠剤のねむりの淵に逢ふ父のほのぼの酔ひてわれを笑まへり
  野に出でておとうとの手に草の種あたたかなりし記憶一束
  紅つけてやさしき睡り恋ふる夜は胸一枚の橋わたりゆく
  赤紙の父帰りくる野の列車ただしんしんと暑き夕ぐれ
  手つなぎの学徒兵きみは還らざりし夕づつの邑あをくつゆけき
  いまだ見ぬ夢のごとくに近づける立山まんだら鳥のとび立つ
 「眠り」「まぼろし」というテーマがつねに歌のなかにかぶさっている。戦争という幼時の記憶が現在の夢の世界と混交していき、幻想的な世界観をかたちづくっている。そこに広がっているのは日本人として逃れようのない心の故郷なのだろう。限りなく日本的な「血族」というもののあり方の奇怪さ。しかしながらその唯一性ゆえに愛さざるをえない葛藤。辺見が自らの「血族」を切り出して作った世界は、日本中どこにでも存在していたようにすら思える異様なリアリティを放っている。