中野昭子(なかの・あきこ)は1944年生まれ。兵庫県立尼崎高校卒。1978年に「ポトナム」に入会し頴田島一二郎に師事。1986年に「躓く家鴨」で第32回角川短歌賞次席。なおこの年の受賞者は俵万智であり、同じく次席となったのは穂村弘である。1987年に第1歌集「躓く家鴨」を刊行した。
俵万智と穂村弘の初期の作風がバブル期の空気を反映したものであるように、中野のデビュー当時の作品も物質主義・消費主義への批判というかたちでバブル期を反映していたといえる。
左より三つめのそれ 咲ききるをためらうごときそれを下さい
ガレージにダンボール箱積まれおりもっとも下の箱崩れおり
付けてあるテレビに人の争えば待合室の話し声やむ
首を振れドラムを叩け背の中の電池を早く使いきれ猿
魂のぬけしししむら焼き代は千円紙幣の三枚にて足る
わが鳴らすベルにおどろき行く人のあけてくれたる道ひろすぎる
砂浜に足踏みをする人のそばゴムのボートがふくらみ来たる
人間とモノとの関係についての冷徹な視線が行き届いている。モノに支配される人間、モノに飲み込まれる人間、モノに奉仕する人間。そういった人間たちの姿がしばしばユーモラスに描写される。「ドラムを叩く猿」はあるいはバブル期に過労気味にまで働いた日本人のメタファーかもしれない。常に後ろや下側から風景にライトをあてて描き出しているからこそ、世界の不気味さをよりはっきりと突きつけてくる。その表現の仕方はとげとげしく、神経質とすら言える悪意を感じさせる。
かがやかぬ裏側見せて飛行機が夏の三時を過ぎゆきにけり
この今の止まりくれぬかたとうればタクシーに手を揚ぐるがごとく
繰り返し強し強しと言われいるおさなみずから泣きじゃくり言う
雨の打つビルの壁面に修復をされし部分の浮き出でており
幼きが死を望みいる人物の死なざるままに物語終わる
いま降りたる電車にわれの坐りいし席がホームを遠ざかりゆく
隠されたものに光を当てたい、暴きたいという思いが常に一貫しており、その思いはときに奇想のような味わいすらも与えてくれる。中野の観る世界にとって、あるいは人間そのものがモノに過ぎないのかもしれない。モノとモノとのぶつかり合いによって流れてゆく日常のクールな切り取り方が、何とも居心地が悪く印象的である。
夏木立の暗き森へはまだやれぬこの子笑ふとまへ歯がなくて
そこここが薄れきたりて夕映えはこれはこれはといふ間に薄暮
放尿のしづくの露が先つぽに輝くわらべに初夏きたる
抽斗の団栗にまた秋のきて中身が縮むにつぽんのやうに
部屋の隅日本の片隅にもたれをり義足はしづかに父を離れて
ちよび髭をなでつつ父の見上げゐきアトムが広ぐる日本のそら
四つ辻の夜の灯(あかり)のさみしけれわれより引き出す影ふたつみつ
これらは2007年の第4歌集「夏桜」からの歌。同様に人間とモノの不思議な関係性が描かれており、少し懐かしい雰囲気の日常が変てこなものに見えてくる。しかし40代の時の「躓く家鴨」に比べると、柔らかく微笑ましいユーモアに変質しているように思う。このような変化を見ると、バブル景気というものが青年にも中年にも等しく時代に歪みを与えていたのだと感じさせてくれるのである。
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