トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその70・大林明彦

 大林明彦は1946年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。福島泰樹、中野菊夫に師事。「一路」「早稲田短歌」「反措定」「樹木」などに所属した。1975年に第1歌集「きみはねむれるか」を出している。
 「きみはねむれるか」は口語短歌のエポックの一つとして残りうる歌集だろう。さわやかで気持ちのいい青春歌が前半には並ぶ。

  あじさいの空はぼくらに。草叢に蜂の巣焼きて帰るふたりに

  こいびとよ 青きさなえのさやさやとかぜ切りてひかる美しい眉(め)だ

  飛べ駝鳥! 行人の靴ばかし追い《青空》決して見ぬくつ磨き

  めをとじてすれちがいゆくゆうかぜの林一気によぎれ ふたりよ

  ゆうかぜを切りゆく馬のたてがみのひかりは濡れて悲しい空だ

  死なないぞ すすきのはらのゆうばえを低くかなしくゆけ、《ぎんやんま》

 これらの歌のさわやかな青春性ははっきりと口語によって生まれていることがわかる。口語でしかなしえないタイプの抒情とは何かを追求した結果としてこれらの歌は提出された。村木道彦、平井弘、小野茂樹といった先達たちの影響を受け継ぎながら、「空」と「風」の伸びやかで清新なイメージに口語の可能性を重ねたのだろう。地を這うような「くつ磨き」は、たとえ飛べなかったとしても飛ぶために地上を走り続ける。「飛べ駝鳥!」という言挙げは、自らの世代を「助走期間」と捉えた悲痛な叫びなのだ。

  きみのめをみつめていればくものすのXとうめいにひかりていたり

  黄に熟れし畑の径よ ゆうべ暗くおさなきかぜとかぜとの出逢い

  欲しいもの なぞなぞ 道草くいながらかぜは稚く今宵も訣るる

  盗みたきもののいろいろ 石けりの輪のようなきみのたとえばSpectacles

  うぐいすの卵あかいな しなしなと歩くひろこの尻かわいいな

  きみが息ぼくがいきしてかけあがるゆうべ樹林のあかき さかみち

  国文の授業のなかば窓見れば遅刻のきみが掌を振りて来る

 「おさなさ」がキーワードである。口語によって生じる幼く子供っぽい印象に対してとても自覚的だったことが伺える。大林のプロフィールには「福島泰樹に師事」と書かれているが二人の年齢差は三歳しか違わない。師事というより兄貴分である。中野菊夫というベテラン歌人にも師事していたが、事実上の兄貴分を師匠と呼んだことは「自分たちの世代で新しい短歌を切り拓いていこう」「戦争という区切りを終え、また新しく短歌を生まれ変わらせよう」という意志があったのではないかと推測する。短歌が口語によって幼くなるのではない、口語短歌そのものがまだ少年期なのだ。そういう思いが「おさなさ」への強い自覚となってあらわれているのではないだろうか。

  忘るなよ 弟 かの日ぼくたちが学徒であれば海に散りしを

  うみはちちのひとみのようだ/てのひらの掬った/青くとけてしまった

  電気学まなびしちちよテクストに斯くあらあらと線を引きしか

  われより若く寡黙な父よ 主戦論推すにはあらで海に散りしか

  どこへゆく 花買いに亦戦いにゆく、水無月の朝はゆうべは

  死ねなかった男きちんと早朝の満員電車に口緊めている

  まるで向日葵のような吾妻と子どもらと小さな破滅の星に生きるよ

  冬ぞらにまたたく志士よ死をとするなにものもわが荒野にあらず

 大林は戦争によって「日本」という国も短歌もいったんリセットされたという意識を持っている。その原因ははっきりとしており、歌集後半にすさまじい熱情で描かれる父の戦死という経験にある。父にまつわる歌に突入した途端に歌の空気が変わる。そしてそれは逆説的に、父が短い生涯を生きた「近代」から大林自身が解放されえないことを証明してしまったのかもしれない。逃れられない刻印としての父の影と、それを覆い隠さんとして取り入れられた「おさなさ」。戦後の黎明期の口語短歌が戦争の影を引きずっていたことがはっきりとわかる。口語が戦争の記憶から解放されるには、俵万智の登場を待たねばならなかったのだろう。