トナカイ語研究日誌

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一穂ノート・16

VENDANGE


  去る日、もはや米櫃に一粒の糧なしと妻の訴ふる、さ
  れど一合の米は現実の秤にして、易くは補ひ難けれ。
  画餅とはいひ、まづ一房の葡萄に添へて鼓腹撃壌之歌
  を置き、子と共に唄ひぬ。


われは葡萄の収穫(とりいれ)。
大鎌にして穀倉、
かの落日の燦たる紫なり。
厨にみち足る食後の唄、
わが窖に酒は熟れたり。

 1935年12月、吉田一穂37歳のときに詩篇「稗子伝」の一篇として「聖餐」第2号に発表された詩である。他に「岩の上」「野分抄」が同時に発表されている。
 この年は年譜によると作品の発表が極めて少なく、生活が困窮したという。10月に長男八岑(やつお)が誕生している。この年から絵本編集者の職を得る1940年までの間が一穂の最も困窮した時代ではないかと思われる。送電を断たれランプで生活し、そのことを原稿に綴ったりした。福田正夫に物質的な援助を受けていたこともある。
 長男の八岑は後に悪魔学の研究書を出したりする異色の著作家となっている。海賊船のようなデザインのヨットを所有していることでも有名なのだが、これは7歳の時に父にもらった「ガリバー旅行記」の影響らしい。

 八岑氏の語る「父・一穂」像はユニークなもので、かなりの貧乏暮らしを強いられたことへの憎悪を感じたこともあるものの、亡くなったときは涙を流したという。住んでいた家は屋根がセメント瓦ですぐにボロボロになり、夜は星が見え、家の中には草が生えたというから凄まじい。「手ばなしに立派な父とは言いがたかった」という「父・一穂」の生き方。「VENDANGE」にはそんな珍しい父としての自己像が現れる。食うにも事欠きながら歌うことは、現実から逃げようとしているのかもしれない。生活に背を向け続けることを詩人の矜持とするような姿勢は、本心から来るものではないだろう。やはり辛いことは辛いのだ。しかし詩人としての誇りがこの詩には見え隠れしているように感じられるのである。