トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞ロスタイム・「ごーふる」について

 「ごーふる」は第1歌集「シンジケート」にあとがき代わりに付された散文詩(掌編小説ともいえるかもしれない)である。この短い一篇には、穂村弘が「シンジケート」の短歌だけでは伝えきれなかったことを改めて掬いなおそうという意図が込められている。歌集全体のテーマが散文というかたちで表記されたものである。
 あらすじを紹介すると、主人公「穂村」が友人たちとスケートに行ったときに、女性から「カルピス飲むと口からおろおろした変なものが、口からでない?」と言われたことで惹かれるようになり、恋人になった。惹かれた理由はそれだけではなく、きっちりと髪の毛を編み込みにしているにも関わらずそういう発言をしたことだった。「口から白いおろおろを出しても、すこしもだるくならずに、あまつさえ髪の毛をきっちり編み込みにして暮らしていける奴がいるなんて、本当に驚いたんだよ。」しかし女性は自分の編み込みを脱ぎ捨てて、本当はつるつるの坊主頭で髪の毛はかつらだったことを告白する。「口からおろおろ出してんのに、髪を編み込みにして暮らしていける女なんているわけないじゃない。」そしてその後、二人はひたすら笑い続けた。そんな話である。
 主人公=穂村とされておりエッセイに見せかけるような部分もあるが、実際はもちろん創作である。作中で描かれる「水死体のことを『大五郎』というと信じていた」というエピソードも、穂村本人ではなく学生時代の友人の話らしい。
 散文であるが、モチーフは詩的な処理がなされている。「カルピスのおろおろ」とは生活をこなす事務処理能力に欠けていることの象徴である。それは単に家事が苦手などという卑近な話ではなく、もっと人間性の根本に関わる部分で苦手なのだ。一方「編み込み」は事務処理能力の象徴であり、その二つを両立できる存在がいたことに「穂村」は勇気づけられ、惹かれるようになった。しかしそれは偽りの両立だった。本当は二人は同類だった。全てが明らかになったとき、二人は笑い続けた。それは絶望の笑いであり、この恋愛が破綻していくことの予感である。
 このエピソードで歌集の内容と関わっていくキーワードは「生活」と「偽り」である。

  子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

 二人きりの世界であるはずの恋愛に社会性が持ち込まれ、生活の一部となっていくことへの不安と拒否。それが表題作のテーマである。生活から遊離した世界でいつまでも遊んでいたい。そんなモラトリアム的な願いに満ちているのが「シンジケート」という歌集だ。しかしその一方で「偽り」もまた拒否するという一面もある。無垢を装うもの、弱さを装うもの、そして世界に馴染める人間を装うこと。いずれも穂村にとっては敵だった。一瞬同類だとシンパシーを感じては裏切られる。その繰り返しのなかで生きてきたのだ。
 タイトルの「ごーふる」とは、女性が「私」にくれたお菓子の名称である。出来合いの既製品の商品という意味合いだろう。本当はここで手料理でも作ってくれなかったことで「気付く」べきだったのかもしれない。

 「私たちは、つるつるでごーふるなのよ。」と、女はいった。「初めからそうだったのよ。忘れたの?」

 この台詞はある意味で非常に残酷なものだといえる。「初めからそうだった」。どんなに想い合っていても、「生活」のできない人間どうしは決してずっと一緒にいられない。もし一緒にいたければ、自分自身も編み込みのかつらをかぶるように自分を偽らなければいけない。大事な人を、周囲の人間を、自分自身を騙し通さなければならない。 
 「そしてホチキスの針の最初のひとつのように、自由に、無意味に、震えながら、光りながら、ゴミみたいに、飛ぶのよ。」と、女は笑った。

 社会化することを、生活をこなしていくことを拒否してもなお「偽る」ことができない存在の末路。「ホチキスの針」はそれを象徴をしている。「カルピスのおろおろ」と「編み込み」を両立できる女という幻想を破られた「穂村」と、「つるつる」を告白せざるをえなかった「女」の先にあるのは、はっきりと破滅である。しかしそれでも都市のなかを疾走していかなくてはならない。「絶望」からすべては始まる。「カルピスのおろおろ」「編み込みのかつら」「ホチキスの針」といったモチーフはいずれも短歌に詰め込むことができずにはみ出てしまった部分だろう。それをあえて書かずにはいられなかったのは、「シンジケート」という歌集がイメージの構築だけで出来上がったものではなく、くっきりとした輪郭をもった思想によって支えられていることの証左なのである。