トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・46

  生まれたてのミルクの膜に祝福の砂糖を 弱い奴は悪い奴

 第1歌集「シンジケート」から。「シンジケート」という歌集はアメリカ型大量消費社会の隆盛が背景になっているが、それは苛烈な競争式資本主義に支えられた社会ということでもある。弱肉強食が徹底され、弱さこそ悪とあっさりと切り捨てられるという、文化の華やかさの裏側にある残酷な側面をしっかりと捉えているのが掲出歌である。膜がはられたばかりのホットミルクに「祝福の砂糖」を浴びせながら、「弱い奴は悪い奴」と断じてみせる。消費文化を信頼しきっているがゆえの無邪気な残酷さである。「祝福」は宗教的な意味合いの強い語であるが、ほかの歌などを読む限り穂村は偽善的な感情の象徴のようなものと捉えている節がある。
 あるいはこう解釈することもできる。「生まれたてのミルクの膜」は新生児のメタファーである。この世に生を受けてきた新生児に対し表面的には祝福してみせるが、ある程度育つまでは他者の庇護を必要とする弱者である子供という存在を見つめ、なべて人間は「弱く悪いもの」としてはじまるのだと考えているのである。残酷なくらい冷たい視線だ。恋愛が社会性を帯びることを拒否する青年にとって、子供とは所詮「招かれざる客」だったのだろう。

  鳥の雛とべないほどの風の朝 泣くのは馬鹿だからにちがいない

 「馬鹿」は穂村の初期作品によく現れる語である。泣く=弱さであり、馬鹿=弱いという式が成り立っているのである。さらに掲出歌とあわせれば「馬鹿」=「弱い」=「悪い」なのだ。こういう発想が出てくるのは、本当は自分は馬鹿ではないとかたくなに信じ続ける過剰な自意識のせいであろう。苛烈な資本主義がもたらした、青年のいびつに肥大した自意識。それがこの歌には見事にあらわれている。