トナカイ語研究日誌

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穂村弘百首鑑賞・51

  ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー
 第1歌集「シンジケート」から。角川短歌賞応募作であった「シンジケート」の時点からすでに入っている歌であり、選考座談会でも評価された歌である。歌意は明解であり、ワイパーをグニュグニュに折り曲げたところそのまま動いた、というだけの内容である。問題となるのは、なぜワイパーを歪めたのか、そしてなんでそんなことをわざわざ歌にしようと思ったのかという点に尽きる。
 この歌の構成でどうしても連想する歌がある。

  ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く  奥村晃作

 言葉のリフレインによる無内容がなぜか心に残る一首である。1991年の歌集に収められている作品なので穂村の歌との相互関連性はおそらくないであろう。奥村晃作は「ただごと歌」の標榜者として知られている。あまりにも当たり前のことを当たり前に歌うために、逆に当たり前に見えなくなってくるという効果をねらった歌が多く見られる。
 しかし穂村の掲出歌は別に当たり前のことを歌おうとは思っていないだろう。むしろ異常な行動を客観的にみている自分自身というのが主題のはずだ。ワイパーはフロントグラスの雨滴を除けて視界を見やすくするためのものである。それを折り曲げてグニュグニュにしてしまうというのは、あえて自分の視界を不透明なものにしようとしているのである。そしてそれを動かしてみたところやはりグニュグニュのまま動いた。一時の自分の不可解な行動が、いつまでも引きずられて自分の視界を遮り続けているのである。
 この歌のポイントは、グニュグニュのまま動くワイパーにいかなる感慨を抱いたかということが描写されていない点である。悲しみなのか、後悔なのか、あるいは何も感じていないのか。それを感受するヒントになるのは「グニュグニュ」という擬態語であろう。「グニャグニャ」ではなく「グニュグニュ」には、歪んだままのワイパーが自律性をもってうごめいているようなイメージが付きまとう。ワイパーは折り曲げられたことではじめて単純な往復運動ではない複雑な運動を手に入れることができたのだ。自分自身の心も「グニュグニュ」でありたい。そういう思いがこの歌には込められているのだろう。