奥村晃作は1936年生まれ。東京大学経済学部卒業。大学在学中に「コスモス」に入会し、宮柊二に師事した。現在は「コスモス」の選者である。
奥村は「ただごと歌」の標榜者として知られている。ただごと歌という概念はなかなか複雑なものがあるが、端的に言ってしまえば当たり前のことをあまりにも当たり前に歌うがゆえに当たり前に思えなくってしまうような歌である。ただごと歌の代表と言われるような歌を引くと次のようなものである。
次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし
ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く
不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす
運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり
信号の赤に対ひて自動車は次々止まる前から順に
1首目の自動車の歌などを読むと、オートマティックに進行していく規律社会、管理社会への批判が込められているのだろうかと思える。それもゼロではないのだろうが、一番注目すべきなのは「子供の目」を持っていることだろう。何も知らない子供の目になって、すべてのものに新鮮な驚きを覚えようとする。こうした姿勢は他の歌人と一線を画するものである。新しい視点を探り当てる「発見の歌」は短歌一般において高く評価されるが、奥村は純真無垢な「子供の目」を持つことであらゆる歌を「発見の歌」に変えてしまうのである。ある種コロンブスの卵的発想である。そして子供はときに王様は裸だと言うことができるのだから、決して侮れるものではない。
船虫の無数の足が一斉に動きて船虫のからだを運ぶ
中年のハゲの男が立ち上がり大太鼓打つ体力で打つ
撮影の少女は胸をきつく締め布から乳の一部はみ出る
さんざんに踏まれて平たき吸殻が路上に在りてわれも踏みたり
結局は傘は傘にて傘以上の傘はいまだに発明されず
転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる
たかがワサビと言わせぬまでに巨大なる企業ぞ「大王わさび農場」
あまりにも身も蓋もない言葉の遣い方には、ときに大真面目ゆえの笑いすらこみ上げてくる。詩的装飾を剥ぎ取り、ここまで無防備な言葉の遣い方には勇気が要ることだろう。実は奥村はもともとは文芸評論家志望であったそうで、大江健三郎論などを書いていたらしい。ひょうひょうとした天然ボケに見える作風は、実は結構理論的に計算されたもののようだ。
イヌネコと蔑(なみ)して言ふがイヌネコは一生無所有の生を完(まつた)うす
死ぬほどの勉強オレはしたからに東大受かつた三十年前
結局は一人ぼっちのボクだから顔ぶら下げてそのままに行け
居ても居なくてもいい人間は居なくてはならないのだと一喝したり
ブッシュこそ悪の根源と思い込むわれの頭の単純を恥ず
人生訓めいた歌、社会詠・時事詠などの割合は年を重ねるごとに増えていっている。とぼけた老人という味わいはあるが、基本的にははっとするようなことを言っているわけではなく、いたって当たり前のことしか言ってはいない。似たような味わいを持った詩を書く作家がいる。武者小路実篤である。
神というものは 武者小路実篤
神というものはないものかも知れないが
俺はこわい。
神に愛されて
神に愛されていると思える間
俺は強いぞ。
まあいゝ
まあいゝ、
俺の一生を
何かの役にたてて見せる。
ころぶ時があっても。
実篤の詩は始終こんな調子である。一見すると詩以前の言葉にしか見えないただの呟きや日記、人生訓などが並んでいる。俺が僕が私がという我も非常に強い。実際、亀井勝一郎によると詩人としての実篤はほとんど詩壇に無視されていたらしい。しかし不思議な魅力を放っている詩であるのは、やはり「子供の目」でもって世界を見ているからに思える。
新しい視点を探そうとしていろんなアングルからぐるぐるものを見回すのは創作する以上大切なことだろうが、やはり疲れるものである。奥村や実篤のように、思いっきり肩の力を抜いて自分の目の位置を低めてみるのも、人生の達人になるための一方法かもしれない。