小笠原魔土(おがさわら・まど)は1967年生まれ。東海大学大学院海洋学研究科修士課程修了。1990年に加藤克巳の「個性」に入会、「個性」解散後は沖ななもの「熾」に寄っている。第1歌集「真夜中の鏡像」は2005年に刊行された。
ペンネームからはわかりにくいが女性であり、中村幸一の解説によれば「黒以外の服を着ているのを見たことがない」らしい。なんとはなしに巫女や魔術師といったイメージの浮かぶ人物像である。そして作風もまさにその通りであり、オカルティックで魔術的な雰囲気を湛えている。
北方の尖った森に満月は凍った冷たい光を落とす
私の記憶はどれもモノトーン 猫の前世の業(カルマ)だろうか
定刻にするりと会社をぬけ出して黒猫に化け闇に溶け込む
今晩は不死者の君と待ち合わせ月焼けをしに江ノ島へ行く
黒マント風になびかせイブの夜 幽霊役でさまよっている
ニンニクと太陽光の毒性を分析している私の同僚
ロンドンの墓場のにおいのする髪をあなたの胸に押しつけている
真夜中の黒き鏡像 禁断の言葉を持ちて私に答えよ
ビロードの手触りがする蝙蝠の翼であなたを包んであげよう
吸血鬼、不死者、黒猫、幽霊といったイメージが19世紀ロンドンのような町並みとともに描写される。実際に作者は錬金術や魔術、タロット占術などを好んでいるようである。このファンタジー性が特徴であるが、ハイ・ファンタジーではなくむしろライトなオカルトの雰囲気であり、どことなくチープな雰囲気がある。そしてそのチープさが、オカルトの仮面の裏で真に作者が訴えたいことを滲ませている。
無機質に並んだ数値のそれぞれに希望と疑問がこめられている
炉の中で緑炎散らした失敗作 花火と見れば切なくはない
私は有機物的メカとなり家電事業を支えているのだ
複写機が吐き出すオゾンの臭いからまだ来ぬ雪の季節を思う
ゆらゆらと沈んでくのはマリンスノー私が結石(いし)を砕いて造った
病院の実験マウスのオニキスによく似た眼だけをながめておりぬ
見学の胆石手術の時に見た脂肪によく似た菜の花の色
実験室という舞台が非常に多く描かれている。小笠原は研究員を本職としているようなのでこれは小笠原にとっての日常であり、日常を切り取った歌も多い。しかし傍目から見るとかなり珍奇で不思議な日常に思えてくる。おそらく小笠原は錬金術の歴史から綿々とつながるものとして現代科学を認識しており、そしてその裏側にびっしりと貼りつき続けているのは人間の心であると考えているのだろう。あらゆる客観的事実の積み重ねである科学を超えたものとしてつねに人間の精神はあり続けてきた。それは同時に人間の限界をも見据えているのだろう。
人間が体内に持つ色彩は外側よりもずっときれいだ
恐竜の次は人類その次は実体のないエネルギー類
明日が今日のコピーであることが幸せであるご時世である
この音に共鳴すれば私は形を残さず流れて行ける
一生のジグソーパズルが終わっても現れる絵は抽象画かも
生物に課された役目を放棄するもう私は増えたくはない
この世からすべてのあなたを見送れば私の不死も止まるのでしょう
究極のお仕事なのだ増殖が理由は全く知らないけれど
小笠原が究極的に持っている思想は生殖への疑念である。生殖をして生命をつむぎ続けることはある種の不死であり、その不死に力を与え続ける医療という世界に自らは携わっている。しかし自分はいつかその悪夢のような「不死」が終わることを望み、増殖を拒んでいる。この思想がオカルト描写のチープさにつながっていくのだろう。戯画化された「不死」の存在たちは、本能が壊れてもなお生に執着する人間の姿の鏡像なのである。それに対する冷ややかな視線があるからこそ、どこか漫画的な「吸血鬼」として人々は描かれねばならなかった。もちろんそれは、生きるために多くの生命を犠牲にしてきた科学の道のりもまた意識している。
小笠原の歌はライトなファンタジー小説のようであり読んでいてとても楽しい。しかし、その裏側には確固たる生命への思想が貫かれているのである。