小黒世茂は1948年生まれ。「玲瓏」に所属し塚本邦雄に師事。1999年に「隠国」で第10回歌壇賞を受賞。「隠国」「猿女」「雨たたす村落」の三つの歌集がある。
小黒は和歌山市出身で、紀州熊野に魅せられその地を舞台とした歌を多数詠んでいる。その特徴は一言で言えば土俗的ノスタルジアである。近代化される以前の、まだ人間が自然と渾然となって暮らしていた頃。人知の及ばない不思議な存在がひしめいていた頃。いわゆる妖怪とか妖精といったものに近いかもしれない。水木しげるの漫画のような、不気味だけどどこか懐かしい前近代的ムラ世界を理想化した歌風である。そしてそんな雰囲気がいまなお多少なりとも残存している場所として、熊野は描かれている。
かなたには火の泉あり火をくみて漁者樵者と夜を吟じよ
羊歯森の時間のそとをかけぬける役小角は思考する風
あざやかに死は生きてゐる龍宮に黒きゆふぐれ華やぐばかり
花婿は薄化粧する 睡蓮の絵よりこぼれ落ちたる六月
遠くへと行くから遠くよりもどる「風の伯爵夫人」と呼ぶ雲
入江へと鯨魚おひこむ黒潮の地鳴りのさまを絵詞にみて
静けさをおしひらきつつ熊野には血の花いろの朝焼けがある
気弱なる鬼いつぴきに酒呑ませ弓張り月を待つ長夜かな
これらの歌は前近代的なエネルギーに満ちている。電気もなかった時代の暗闇の優しさ、途方もない自然の大らかさ、そういったものが感じられる歌である。前近代的な日本への憧憬という点では前川佐美雄に通じるものがあるが、故郷の風景を理想化した前川とは違い、小黒の描く熊野像はエキゾティシズムをはらんでおり、伝奇的である。アニミズムというよりは民話的世界であり、天狗や妖怪のような存在ととても相性がいい。唐突に出てくる「鬼」が何の比喩でもなく、実際に当たり前に存在する鬼という感じがするのである。現実世界とは少しばかりずれた位相にある幻想世界としての熊野だといえる。
からつからに乾した亥(ゐ)の胃(ゐ) 風邪なんぞぢき治りますんや飲んでみい
鮮しき猪首ささげ手をふれば〈おうよ〉と山の神はうなづく
へろへろと歩くわれなり〈蝮酒きゆつとあふつて峰を越えてけ〉
綿飴かい うんにや、ひとだま 石垣をふはり越ゆるはほんに美味さう
手風琴の商人かよひし霧の村落(むら)に〈オイチニーの薬を買いたまへ〉
すんまへんなあ 片手拝みに鯨肉をひときれつまむ見知らぬ輪のなか
〈裏山へ漁りに来やんし〉われを呼ぶ電話の向かうに夜鰻はねる
ほかに特徴的なのは、軽やかな関西弁の導入である。定型に方言という究極の口語を用いること自体は昔からしばしば試されている。しかし小黒が歌に方言を用いるときは、人間どうしの会話というよりむしろ人間と神との会話のようである。特に括弧書きにされている部分は、いずれも神や自然が声なき声で人間の内側に直接語りかけているかのように思える。
川霧は母のごとくに目に見える子も見えぬ子もふところに抱く
ながき影くねらせ川をのぼる蛇あるいは蛇をくだりゆく川
お堂の賽銭箱に住むヤモリを笹でこちよこちよするも動かぬ
井戸覗くふかさに夏空あふぐとき水銀いろに月ふるびたり
牛飼ひさんの胸に睫毛をすりよせる雌牛タキさん野あがりのとき
潮風にもまれる樫の葉裏にはゐるゐる越冬亀虫ゐるゐる
さかづきの繊月ろろつと呑むときの歌びとわれに尻尾生えたり
つづれ折りの道をまよひて欅まで根の国よりの使者かゆふぐれ
動物や、虫などの小動物を描いた歌も多い。亀虫の歌は、「ゐるゐる」というひらがなの字面を丸っこい亀虫の象形としているレトリカルでユニークな一首である。熊野ばかりではなくときには奈良の十津川や三重、北海道などにも足を運び、都市の風景が描写されることもある。ただ小黒の歌の気持ちいいところは都市批判、田舎礼賛という簡単な図式に陥るわけではないところだろう。弱くてちっぽけな人間を包み込んで救ってくれる場として、土俗は人間を待ってくれている。小黒の描く土俗的世界は、あくまでゆったりと時の流れる癒しの世界なのである。虫や獣と戯れ、妖精たちと交信できる村。それはある種の理想郷なのだ。