田川みちこ(たがわ・みちこ)は1953年生まれ。1990年より「未来」の古参会員であるアララギ系の歌人・宮岡昇に師事し、「樹液」の創刊に参加した。1991年に歌集『記憶端子』を刊行している。「かばん」に所属していた時期もある。
『記憶端子』は短歌を始めてからわずか2年足らずで出された歌集だという。出版すると決めてからわずか3ヶ月で刊行というすさまじい突貫工事ぶりである。それが反映されたのかもともとの資質なのか、全力で駆け抜けるような疾走感のある作風だ。
ラッシュ時の願ひはひとつ胸厚き男の多い車輌に当たれ
歩きながらタイを結びてイヤリング持ちて駅着 ready go!
思ひきり寄りかかるため通勤の電車は素顔をエチケットとする
親愛なるラッシュアワー氏、今日もまた少し淫らに勤め人しよう
今朝もまた知らぬ男に寄りかかるラッシュアワーは秘かな楽しみ
帰宅時の男はどれも疎ましく煙草と埃と疲労の匂ひ
前に立つスーツのボタンぷらぷらと妻つつがあり困つた困つた
なんとラッシュアワーというテーマだけで延々と歌を作ってみせている。しかも、ラッシュアワーで見知らぬ男性に寄りかかることを秘かな楽しみにしている女性という異色の作中主体である。このラッシュアワーは実際に歌集刊行当時の(今もあまり変わらないが)社会問題でもあったのだろう。そしてそれは、見知らぬ人間と直接体の触れる奇妙なコミュニケーションの場として象徴化されている。その不思議な空間を楽しもうとする姿は、つまり息苦しい社会を心の持ちようで泳ぎきろうとするしたたかな女性像でもあるのだろう。
真夜中に離離離離凛とベルが鳴り勝手に切れてサヨナラ三角
二月二十二日はニヤンニヤンニヤンだから猫の日といふ ふ・ふ・ふ
君のことそつと見てると言ひながら目は味見して視姦合格
メモリーを消せば九九九九九と笑ふカシオ電卓と夜中のわたし
重ねゆく日々にこの血は薄まれり「大和をみなごアメリカンでひとつ!」
こういった自由奔放で楽しい歌も目立つ。「離離離離凛」「ふ・ふ・ふ」「九九九九九」といった表音と表意を重ねてみせる手法を特に好むようだ。こういった独特の修辞感覚には、昂揚した時代のムードの影響を感じる。
オレンヂのラムプ灯して真夜中に電気ポットの五ミリの指針
誤差持たぬ時計の内部をつかみ出し我が内臓と入れ替へてみる
結果として父親になるだけのこと少年の日を押しやるな夫よ
麦わらの帽子透かして陽の光こんなに優しく生きてみたいね
大好きなパワーショベルが大好きな欅引き抜く肌寒き朝
何事も無き被爆二世を夫に持ち心だけ少し被曝してゐる
逢ふ人を傷つけてしまふ剝き出しの吾を恐れて黄水仙抱く
こういった歌は比較的オーソドックスな表現スタイルであるが、「剝き出しの吾を恐れて」という部分などかなり本音が出ているように思う。疾走感のある表現、ハイテンションな修辞といったものが、「剝き出しの吾」を覆い隠す鎧として機能していたのだろう。「真夜中に鳴るベル」「カシオ電卓」「五ミリの指針」「誤差持たぬ時計」みな正確さをその存在意義とする機械である。それらと対峙しながら、徹底的に不確かな存在である自己を向き合っている。不確かな人間同士のコミュニケーションを恐れ、匿名のラッシュアワーの男たちや正確に数字を測る機械に心を寄せる。『記憶端子』という歌集のタイトルもまた、そのような意識とつながっているように思うのである。