光森裕樹は1979年生まれ。京大短歌会出身で、結社には所属していない。2008年に「空の壁紙」で第54回角川短歌賞を受賞し、2010年に第1歌集「鈴を産むひばり」を刊行したばかりである。
作風はスマートでスタイリッシュという言葉がぴったり来る。ドイツ留学経験があるらしいことが関係しているのかはわからないが、大陸的なさわやかな空気と繊細で端正な雰囲気が同居している感覚である。
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
手を添へてくれるあなたの目の前で世界をぼくは数へまちがふ
アンナ・シュバルツバルト、人ではないものに其のやうな名を付けては不可ない
いつの日のいづれの群れにも常にゐし一羽の鳩よ あなた、でしたか
追伸:あの画家の名前を思ひ出しました。ラヴィニア・フォンタナ。それでは
だとしてもきみが五月と呼ぶものが果たしてぼくにあつたかどうか
わらふからそんなに君がわらふからためいきがまた飴玉になる
口語短歌の一種の完成形と言えるくらいよくできた歌である。このヨーロッパの映画のような空気感が、歌集全体を心地良く包んでいる。意外に歌数の多い歌集であるが、あっさりと読めてしまうのはこの空気感のおかげだろう。
ほほゑみを示す顔文字とどきゐつ鼻のあたりで改行されて
喫茶より夏を見やれば木の札は「準備中」とふ面をむけをり
〔スタート〕を〔電源を切る〕ために押す終はらない日を誰も持ちえず
反戦デモ追ひ越したのち加速する市バスにてまたはめるイヤフォン
六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか
友の名で予約したれば友の名を名告りてひとり座る長椅子
自転車の灯りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち
ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
大空の銃痕である蜘蛛の巣をホームの先に今朝も見上げつ
しかしその一方でこうした日常の中の発見を詠んだただごと的な歌が散見されるのが特徴でもある。ささいな発見が世界を更新させる。ある意味小市民的であるとも言えるし、近代短歌の骨組みをしっかりと継承しているとも言える。こうしたトリビアルな歌ですらいたってスタイリッシュに演出できるところが才能である。
万物はウェブ上にあり anonymous FTP(フアイル・トランスフアー・プロトコル)
月夜、アラビア文字のサイトにたどりつくごとく出逢ひてまたは逢はざり
鳥の名で統一したるサーバーのひとつがやはり応答しない
あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず
行方不明の少女を捜すこゑに似て Virus.MSWord.Melissa
つひに巴里さへ燃えあがる夜も冷えびえと検索窓は開いてゐるか
死してなほ遺れる友のウェブサイト潰す術なく如月弥生
さらに顕著な特徴として、IT用語が多数登場することがある。ウェブ関係の技術者として最先端テクノロジーのなかで働いている作者自身の境遇が反映されている。あらゆる情報がフラット化するウェブの特徴を見据えながら、しかし生身の人間の心はそうたやすくフラット化されたりはしないという認識があるように思える。それゆえに、IT用語と人間くさい抒情の組み合わせで不思議な情感を作り出すことに成功しているのだろう。
文語をしっかりと用いると老成した印象を与えやすいが、光森の歌は文語脈の歌でも清新で若々しい印象がある。「少年」や「思春期」、もしくはそれらを強く想起させるモチーフを好んで詠んでいることがその要因だろう。最後に特にしびれた歌を挙げて終わりとしたい。
われを成すみづのかつてを求めつつ午睡のなかに繰る雲図鑑
花積めばはなのおもさにつと沈む小舟のゆくへはしらず思春期
しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年
ゼブラゾーンはさみて人は並べられ神がはじめる黄昏のチェス
致死量に達する予感みちてなほ吸ひこむほどにあまきはるかぜ