高瀬一誌(たかせ・かずし)は1929年生まれ、2001年没。東京経済大学卒。「をだまき」にて中河幹子、「短歌人」にて小宮良太郎に師事し、「短歌人」編集、発行人などを歴任した。製薬会社の広告部や、「短歌現代」の編集部に勤めていたこともある。
高瀬は戦後短歌史のなかでも最も異彩を放つ歌人の一人である。まず五七五七七の定型に収まっている歌が少ない。いずれかの句が脱落している傾向が強い。しかし自由律という感じでもない。あくまで「欠落した定型」という印象だ。「どこか大事な部分が抜け落ちている」というのが文体的にも内容的にも重要な感覚なのだ。
よく手を使う天気予報の男から雪が降りはじめたり
ワープロからアアアの文字つづけばふたりして森閑とせり
ホトケの高瀬さんと言われしがよくみればざらざらでござる
歯車でも螺子でもいいがオスメスのちがいはかんたんならず
十冊で百五十円也赤川次郎の本が雨につよいことがわかりぬ
スティックがきらいでチューブ入りの糊を好むわけを教えようか
言っていることはいたって無内容である。「だから何だよ!」と言いたくなる。だが「だから何?」と「だから何だよ!」の違いは大きい。気合を入れてツッコんでしまうのは読み手の心を動かせたからである。そしてこの奇妙な味が歌うモチーフと字足らずのリズムの双方によって担保されていることは読めば読むほど伝わってくる。
眼鏡の男ばかりがあつまりてわれら何をなすべきか何をなしたる
どうもどうもしばらくしばらくとくり返すうち死んでしまいぬ
ころがしておきし菊人形義仲の首は十日ののちもなくならぬ
じたばたする自転車をかつぎあげたりこれを行く末という
横断歩道(ゼブラゾーン)にチョークで人型を書きもう一人を追加したり
何かせねばおさまらぬ手がこうして石を握りしめたり
右手をあげて左手をあげて万歳のかたちになりぬ死んでしまいぬ
「顎をあげ大きく息を吸ってそのまま止めて」死に際に近づくらしい
唐突で不条理に死ぬ展開がままみられるのも特徴である。しかしこれらの歌には「何もせずにただ時が経ち死んでいくことへの不安」が基礎にあるように感じられる。何をしたらいいかもわからずただ流されて毎日を生き、死へと向かっていくこと。それこそが人生であるとばかりに不条理な展開は延々と繰り返されていく。
カメを飼うカメを歩かすカメを殺す早くひとつのこと終わらせよ
吊り革がつかまらないと呟けばとなりの人もうなずきにけり
頑丈なつくりであっても一つ二つはもろきところは椅子にもありぬ
うまそうな食事の匂いをつくる人はやはり男の五十代だったな
説明はまわりくどいが父親と腎臓の形態似ているらしい
太陽のひかりあびてもわたくしは まだくらやみに立ちつくすなり
比較的定型に収まっている歌を集めてみた。このような歌は少数派である。やはり不条理な内容の歌も目立つが、七七の音の連続にはやや湿った抒情を発生させる効果があるのではないかと思えてくる。「現代の歌人140」の小高賢の解説によると、晩年は闘病生活にあったがそのことを外に全く気取らせなかったという。しかしあとから見直すと闘病の床にあったことをしのばせる歌が透けて見えてくる。高瀬にとって短歌とは自己を表明するためのものではなく、世界の不条理さを訴えるためのものだったのだろう。少し笑えて少し寂しいシュールな歌人として、高瀬一誌は戦後短歌において今もなお孤高を保ち続けている。
- 作者: 高瀬一誌
- 出版社/メーカー: 砂子屋書房
- 発売日: 2002/04
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