トナカイ語研究日誌

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現代歌人ファイルその162・フラワーしげる

 フラワーしげるは1955年生まれ。「かばん」購読会員。2010年に「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」で短歌研究新人賞の最終選考を通過している。
 フラワーしげるの作風は、定形に収まっていないという点では自由律といえるがしかし本来の意味での自由律とは異なる。自由律というのは実際のところ音数律を全く無視するのではなく、新しい音数律の組み合わせを志向する点に特徴がある。フラワーしげるの場合、定型律からよりはみ出していこう、暴走していこうとする志向が見られるのである。

  地平線でかすむあれは教会の尖塔か遠ければないのとおんなじ


  きみはよく喋る人の形 ぼくは性欲だらけの豚の皮で 説教をはじめろ牧師


  立派なハドリアヌス大帝そこにすわるなそこはシルバーシート


  えらいえらいひとのするむごいことたくさんで空も悲しんで雨だ


  年収を越したらもう返せない父よ生きかえって霧のなかからあらわれてくれ一万円札の束持って


  ママぼくはあなたのきらいな永遠と遊んでいてもう帰らないかもしれない性的な四角形の薄い枠

 第5回歌葉新人賞最終候補作となった「惑星そのへん」からの歌。「年収を越したら〜」「ママぼくは〜」あたりがそうなのだが、最初は五七の定型からはじまり、定形に収まるのかと思いきやブレーキがなかなか効かないようにずるずると引っ張られていき結果として大破調になるというタイプの歌がある。定型を壊すというよりもむしろ、止まることができず延々と続いていく余剰のなかにドライブ感を生じさせていくことが目的なのではないかと思う。

  ずっと片手でしていたことをこれからは両手ですることにした夏のはじまる日


  小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった


  数人の靴ひもをあわせて結んでぼくたちはかれを降ろして世界を救った


  洗濯は静かにはできないことできみがいる窓のずっと向こうを雲雀と呼ぶ


  この機は黒いヒタチだと痩せた声が言いエレベーター狩りの子ら去る


  ぼくらはシステムの血の子供で誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼き払った

 「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」から。シュールで隠喩めいた歌が目立つが、やはり同様のドライブ感を保持しているように思う。フラワーしげるの歌は、立ち止まることがない。自然落下運動のように終わりなく走り続けていく。意味も物語もハイスピードに振り落とされてゆく。。フラワーしげるの破調は、垂直方向への破壊しかなく、水平方向には常に短歌と同じ幅を保っている。

  おれか、おれはおまえの存在しない弟だ、ルルとパブロンでできた獣だ


  もう一回言うがおれは海の男ではない


  きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった

  
  かくのごとく卑劣な日の性欲も食欲もつねと変わらずねえムーミン

  
  橋のまえに濃い色の服の男らならび誰にでもある手首はふたつ


  小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく


  工場長はきびしい言葉で叱責しぼくらは静かに未来の文字を運んだ


  東京というのは湖の名前ではない夜の電話でそのことを伝える

 フラワーしげるホームページ「タンカラクティブ」から。前述の投稿作品から主に抜粋されている。一首目のルルとパブロンの歌は短歌研究新人賞で「予選通過」として二首のみ載せられたうちの一首だそうだが(事実上参加賞のようなものである)、強烈なインパクトである。このように比較的定型に近い歌も結構あるのだ(その一方で二首目のようにむしろ自由律俳句に近いものもある)。破調のドライブ感を駆使したスピード型の歌人のように思ってしまうが、実は一首あたりの重さが段違いなパワー型の歌人が本質といえるのかもしれない。
 「欲」というテーマが頻出することも、フラワーしげるの特徴だろう。性欲も食欲も、人間性を超えたところに存在し抑え切れないものだ。「人間」の虚飾を剥いだところにある「欲」に執着するように、フラワーしげるはあらゆる修辞や意味を剥ぎとったところに存在する「詩」の本質を見つめようとしている。

フラワーしげるホームページ「タンカラクティブ」
http://homepage3.nifty.com/dog-and-me/tankaractive/tanka_top_1.html